2010年08月11日(Wed)
■ 日本科学未来館へ行ってきました。
こどもと日本科学未来館*1へ行ってきました。その近くである夏恒例のお祭りの日付だけチェックして、「よし。まだやってない。行くなら今だ」と。
特別展はドラえもんの道具を、現代技術でどこまで再現できるかというものらしいのですが、こどもはドラえもんは見ていないし、入場待ちが40分くらいあるということで、パス。もう少し、こどもが大きくなって、待ち時間を乗り切る体力や、内容を理解できるだけの知識つけてからでいいかな、と。
わたしの目当てはインターネット物理層モデルで、しっかりと見ることができました。白と黒の玉を指定された規則で並べて、スイッチを入れると、あちこちの円筒形の筒の中を螺旋を描いて回ったり、橋をわたったりして、目的の場所に到達します。これを触れるのは決まった時刻の時間内のみだったようで、ちょうど、それを触れる時間で、ラッキーでした。
次に見たのは、明和電気のKnock ! ミュージック プログラムでした。こちらは、演奏時間などを外してしまって、オタマトーンにも触ることができませんでした。iPadを操作端末にした打楽器は触らせてもらえたのですが、こどもは理解できてなかったです。後ろに人が待っていたりで、わたしもうまく説明してやることができなくて、残念。
あとからこどもに感想を聞いたところ、一番おもしろかったのはAIBOのデモで、その次が人型ロボットASIMOのデモだったそうです。逆に宇宙船ディスプレイは床が斜めになっていたために立った途端に酔いそうになって「気持ち悪い」とぐったりし、人体模型に至っては「……」完全スルー。わたしは宇宙船ディスプレーも人体模型も楽しかったんだけれどなぁ。
科学未来館は、科学コミュニケーターのスタッフさんがたくさんいて、展示物をみて、「はっ」とするこどもの一瞬の表情をとらえて、「よく気づいたね!」と褒めてくれたりして、とても良かったです。これは毎回行ったら味わえることではないとは思うのですが、また行きたいと思いました。
*1 名称をおもいっきりミスっていたので修正しました。すみません1
2010年08月12日(Thu)
■ ICCキッズ・プログラム 2010「いったい何がきこえているんだろう」へ行ってきました。
ウェブ上で、とても評判がよかった展覧会で、こども向けのものがあったので、初台の東京オペラシティ4階で開催されている、ICCキッズ・プログラム 2010「いったい何がきこえているんだろう」へ行ってきました。
同時に5階で開催されてたオープン・スペースギャラリーのメディア・アート作品も見てきました。今まで、わたしはメディア・アートというのは背後にある仕組みや仕掛けを理解して、そのメタな部分を考え楽しむものなのかと思ってましたが、全然、違うということがわかりました。それそのものが、すごい。
特に、クワクボリョウタ氏の《10番目の感傷(点・線・面)》は、すごく良かったです。帰りの電車の中で、魂抜かれたようなこどもに「何がよかった?」と尋ねたら、「電車が走って、影が大きくなるの」と。最初のうちは、暗闇をこわがっていたこどもも、すっかり魅入られてました。
2010年08月13日(Fri)
■ 図書館へ行ってきました。
先日の、ふとした疑問(?)にお勧めしてもらった本を、図書館で借りてきた。
村上春樹が小説を書くときに、書き手と読み手だけを考えながらではなく、その間に「うなぎ」という第3者を登場させ、対話しつつ書いているという話が興味深い。どうやったら「うなぎ」を召還できるのかな?
■ 整形外科へ
こどもの足の爪が割れて出血したので、整形外科へ行ってきた。10日分の消毒薬を処方してもらう。
2010年08月14日(Sat)
■ 電子書籍フリマ番外飲み会
電子書籍フリマとは、米光一成氏らが開催している対面形式の電子書籍販売のことで、最初は今年の5/23に行われた文学フリマで実験をし、次に7/17にカフェを貸し切り開催した、同人誌即売会と電子書籍販売をリミックスしたようなユニークなイベントです。
わたしはこれに直接参加したわけではないのですが、電子書籍フリマで『電書フリマへの道』を購入された@takahashimさんが、twitterでこの電書をわたしにお勧めしてくれ、そこに電子書籍フリマ用の販売システムを構築された@ma2さんが著者にお金を渡せる範囲の電書ならば飲み会でも開いて、そこで対面販売して良いよ、という提案をしてくださり、@kdmsnrさんが幹事となって、7名で新宿で電子書籍フリマ番外飲み会が実現しました。
電子書籍の販売は、次のような手順で行われました。(売り子さんは@ma2さんです)*1
- 売り子さんのiPhone端末を購入者の手元にお借りし、販売できる電書リストにチェックを入れる
- 売り子さんにiPhone端末をお返しし、購入者は自分のメールアドレスをお伝えし入力してもらう
- 購入者は売り子さんに電書代金をお支払いする
- 売り子さんは販売ボタン(?)を押す
- 購入者のメールアドレスに「お買い上げありがとうございました」と1通目のメールが届く
- お買い上げメールはレシートのようなもので、購入した電書のリストと代金、そして、これから電書を準備する旨が書かれている
- しばらくすると、購入者のメールアドレスに「電書の準備ができました」と2通目のメールが届く
- 一冊の電子書籍につき、キンドル用PDF、PC用PDF、ePub用、Stanza用、4種類のダウンロードURLが記されている。
- ダウンロードURLは一ヶ月程度で削除されるらしい
- 購入者は自分が読みたい形式の電子書籍をダウンロードし、それぞれのデバイスやリーダーで読む。
1通目と2通目のメールの間では、購入者ひとりひとり用の電子書籍をシステムが作っているそうです。なぜかというと、購入者のメールアドレスを電子書籍のすべてのページに記すことで、不正コピーの抑止効果を考えているそうです。わたしがダウンロードしたPC用PDFの電子書籍にもすべてのページの左下に、自分のメールアドレスが記されていて、これはちょっと普通の本ではない、不思議な感覚でした。(著者でも編集者でもないのに、自分のアドレスが紙面に入っているというのが)
電子書籍フリマで販売される電書の値段設定は100円から300円で、これは対面販売時にお釣りなど端数をなるべく作らない価格設定だそうです。また、今回、わたしは、10点ほど買いました。10点以上だと、一点あたり100円で販売されます。電子書籍フリマでは、このような対面販売形式で、すでに5400冊ほどの電子書籍を販売しているそうです。
あと、電子書籍に関連して、いくつかの話が出ていたのですが、電子書籍時代の著者サインについて。@takahasihmさんが以前、iPadを使って@kdmsnrさんにサインをもらうというのをしてました。電子書籍でも工夫すれば著者サインがもらえること、また、デジタル媒体でサインをもらうのだったら今後、著者がサインを記入する筆跡を再生するような仕掛けがあるとよいのではないかというアイディアや、オンラインでもサイン会を開けるのではないかというアイディアが出てました。著者サインは、たぶん、著者にサインをしてもらうという時間の共有と、著者に自分の名前{○○さんへ」と書いてもらうことが、読者にとっては価値のあることなので、そういう価値を伸ばすような、オンライン時代、電子書籍ならではの著者サイン会の形態を考えるのも、おもしろいですね。
他にも、いろいろな話題で盛り上がり、あっという間に終電時間になりました。みなさん、ありがとうございました。
*1 しかし、この日記を書いた後に冷静に考えてみると、この手順よりも、対面販売のおもしろさは、その本を書いたのがどういう人かどういう経緯でその本を書いたのかというような本に書かれてない本にまつわる話を聞きながら、本を選ぶことにある気がした
2010年08月17日(Tue)
■ 「これも自分と認めざるをえない展」とジュンク堂と松丸本舗へ行ってきました。
@yucoさんと待ち合わせして、21_21 DESIGN SIGHT-「これも自分と認めざるをえない展」へゆき、その後、ランチして、池袋へ移動、ジュンク堂を見てから、yucoさんとは別れて、松丸本舗へゆき、銀座のOギャラリーへ行って、ギャラリースタッフの旧知のO嬢と突発的夕餉の会をしました。ディープな一日!*1
21_21 DESIGN SIGHT-「これも自分と認めざるをえない展」
ディレクターの佐藤雅彦氏のblogに“これも自分と認めざるをえない” 展 の見方があるのですが、そこに書いてあるように、ひとりひとり体験型の展示が多いため、開場くらいに着いた方が、効率よく見て回れます。一つの展示を観賞するのに、2分~5分かかることもあるため、数人待っているだけで、10分、20分の待ちになります。
まだ会期中なので、感想はネタばれになってしまうので、今回は避けますが、おもしろかったです。
ジュンク堂書店 池袋本店
今回は4F歴史・宗教・哲学・思想・教育・心理、6F コンピュータ・医書を中心に見て回りました。6Fのコンピュータ書籍コーナーには見覚えのあるお名前のPOPがたくさんあって、壮観でした。特にRubyコーナー。
本がたくさんあるって、それだけで癒されますね。すばらしいな。
松丸本舗
松岡正剛氏プロデュースの本屋さん、松丸本舗、一回、行ってみたいと思っていて、ついに足を踏み入れられました。なんと、ちょうど、松岡正剛氏ご本人がなぜかフロアに居て、びっくり。それまでは、本の並びをみてにやにやしてたのに、ご本人を見たあとは動転して、冷静に本棚を見ることができなくなってしまったのは、なんというか…。
最近はウェブの有名人は講演会やイベントなどでよく見かけていたので、有名人を見てもそこまで動転することはないと思ってたのですが、わたしの中では松岡氏は学生時代(高校生ごろ?)から読んでて書籍メディアの方だという認識が強く、なんというか、なんというか、自分の中で、かなりリスペクトしている人なのだ、ということを、認めざるをえなかったです…。これも自分です。うみゅー。
Oギャラリー
Oギャラリーでは、松山直子展がよかったです。岩絵具を使った日本画要素のあるモダンな絵が好きな自分も再確認しました。
*1 投稿してから気づいたが、日記の日付が8/17ですが、行ったのは8/16です。帰宅して深夜0時過ぎに投稿したので、日付がづれてしまいました。
■ なぜわたしは松丸本舗で松岡正剛氏を見て衝撃を受けてしまったか。
松丸本舗へ行ったとき、松岡正剛氏を生で見て、すごい衝撃を受けてしまい、その後、書架を見ることができなくなってしまったわたしだが、少し冷静になって、それを考えてみた。
考えてみるまでもなく、一つ目の理由としては、自分が松岡氏のファンだったというのもあるのだが、もう一つの理由は、松丸本舗という強烈な空間の中でまさにそのセンターである存在を見た、ということだと思う。
松丸本舗の書架は、いわゆる本屋や図書館とは異なり、直線ではなく、ぐるぐると螺旋か迷路のように巻かれた構成で、ほぼ360度、人の周りに書架が並び、さらに本の置き方も立てて並べたり平面に置かれているのではなく、背表紙を目線にあわせて積み上げられる構成だ。
これは、境界が複雑に入り組みあい、人の意識を日常から非日常、つまり、異界に誘いやすい構成と言える。
その異界空間のセンターは、もちろん、その空間をプロデュースしている松岡氏ご自身で、ただ、通常は、センターというのは隠されている。なぜなら、そのセンターを目の当たりにしたら、人は死んでしまうからだ。死んでしまうというのは、もちろん、比喩だが、比喩でない部分もある。
(センターを見たら死んでしまうというのは、神話や聖書の中では、普遍的に用いられているモチーフだが、それは畏敬という言葉でも置き換えられるだろう)。
わたしは松丸本舗に足を踏み入れ、ぐるぐると書架をめぐり、そして、最後の地点で松岡氏を目撃し、その後、書架を、本を見ることができなくなってしまったというのは、もう、これは必然なのだ。
■ WikiとWikiばなについて考えている。
最近、Wikiばなについて考えていた。なぜ、第六回までのWikiばなと、第七回以降のWikiばなは、かくも違うものであるのだろうか。わたしが今後、Wikiばなを続ける意味はあるのだろうか。
第六回までのWikiばなと第七回以降のWikiばなは、形式が大きく異なる。第六回まではワールドカフェ風に、参加者全員がテーマについてポジションペーパーを発表し、小グループでディスカッションをするという形式だった。第七回以降のWikiばなは、登壇形式でひとりの人が話、大勢の人がその話を聞くという形式だ。
このような形式の違いがでてきたのは、さまざまな要因があるのだが、ひとつ、大きな実感としてあるのは次のようなことだ。
「リアルイベント開催のためのウェブサービス利用のコツ」で書いたように、WikiばなはWikiそのものをターゲットにしていて、第六回までに集ってきていたのはWiki開発者や、Wikiそのものが何であるかを考える人たちだった。
この人々の周りにはコミュニティがあって、Wikiそのものについて考えるコミュニティがいくつかあったという風にも言える。第六回までのWikiばなは、いわば、そうしたWikiコミュニティのハブ(中継点)だったという側面が大きいように思う。
Wikiばなそのものがコミュニティをおおっぴらに築かず、比較的、ひっそり(?)とやってきたのは、中継点自体は通路であって、コミュニティではないという考えが、その背後にある。(なので、WikiばなMLは、Wikiばな自体を開催するためのしごく運用的に必要なメールのみを流すようにしてきている。今後どうなるかはわかりませんが)。
しかし、わたしの感覚としては、第六回(2007年)以前の2006年頃に、いくつかあったWikiコミュニティが喪失した。その象徴として、第六回は「失敗Wiki/さびれWiki」がテーマだったのだと、今にして、思う。
その後は幸運にも、Wikiそのものが何であるかを大きく示唆した『パターン、Wiki、XP』が出てきて、何回かのWikiばなを開催できたのだけれど、しかし、依然としてWikiを巡るコミュニティは失われたままで、ハブとしての機能が失われ、わたしは、いま、やや、途方に暮れている。みんな、どこに行ってしまったんだよ。twitterにすら、いないんだよ。もしかしたら、ウェブにもいないのかもしれない。
もう少し、Wikiばなから離れ、Wikiとは何かについて、考えていることを記してみる。
Wikiというのは、「いっしょにやる」ためのツールだ。いっしょにやるための、ひとりひとりの行動指針として、「誰もが自由に編集できる」というキャッチフレーズがある。これは、ひとりひとりに対して示された指針だ。
しかし、Wikiで一緒にやるためには、じつは、この指針だけでは足りない。「いっしょにやる」ためには、もっとメタなところで、オーガナイズ(組織生成、組織化)する何かが必要になる。
わたしはまだ、Wikiには、このオーガナイズに関する議論が足りてないと思う。
先日、C2Wikiを見ていたら、じつは、「collaboration」を含むタイトルが21ページに比べ、「organization」を含むタイトルが47ページもあった。じつはコラボレーション以上に、オーガナイズの方が、C2Wikiでは活発に議論されているということを示唆していると思う(まだ個々のページ詳細を見てないので、これは予想)。
また、先日、NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: コミュニティを開発して、エコシステムをつくる!? : 変化する学習研究のあり方を読んでいたら、次のようなことが書かれていた。
「何かを開発したら、それに関係する人々のコミュニティも開発する。そして、開発物とコミュニティのセットを"エコシステム"とよぶ」
[NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: コミュニティを開発して、エコシステムをつくる!? : 変化する学習研究のあり方より引用]
「コミュニティの開発」は全くなされていないわけではありませんが、多くの場合、「普及」というラベルが打たれて、それは「研究にはならない」としてあまり重視されませんでした。「あの人は"研究"ではなく"運動"をやっている」というネガティブなラベリングも、なされることがありました。
かくして、「開発物を使う人」は見いだされぬまま、もちろん、「コミュニティ」は開発されぬまま、次の開発物、次の新たなコンセプトの創造に向かうパターンが多いように思います。」
[NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: コミュニティを開発して、エコシステムをつくる!? : 変化する学習研究のあり方より引用]
まだよく見えていないけど、Wikiにおいても、コミュニティの生成論としてオーガナイズの議論はまだまだ余地があるように思える。
ただ、ひとつ注意しなくてはならないのですが、もうすでに単体のエンジンや単体のウェブサービスのみに完結したコミュニティの時代は終わっている。それは「リアルイベント開催のためのウェブサービス利用のコツ」でも示したとおりだ。だから余計に難しい。
Wikiの利用もWiki単体だけで見るべき問題と、複数のウェブサービスとの連携でみる問題があり、また、Wikiを利用するためのオーガナイズの議論が必要だ。「誰でも自由に編集できる」というキャッチフレーズのもとでは、Wikiを使うために必要な議論は、思考停止に陥ってしまう。
ということを考えて、twitterで断片をつぶやいていたら、結城浩さんにこう言われた。
うーん。しばらく、ひとりでここら辺を勉強しながら、ぶつぶつtwitterやこの日記に書いて行くしかないですね。
2010年08月23日(Mon)
■ 『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』
『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』は、2004年海鳥社より刊行された、フランス現代思想などが専門の内田樹氏によって著作された書物だ。
この本は、ラカンの精神医学を土台に、ユダヤ人の思想家レヴィナスを読解しようという試みだが、学術書と違い、内田氏自身が、レヴィナスをどう読んだかという解釈の書だ。 わたしはレヴィナスもラカンも読んでいないので、どこまで正当性があるのかなど判断はできないが、読んでいて、「これは、わたしは、知っている」という妙な懐かしさを抱いた。
ひとつは、ユダヤ教の教典はキリスト教の旧約聖書と内容が被ること。本編に、モーセ、アブラハムの話がでてきたが、その「読み」は、すんなり入ってきた。
そしてもうひとつ、レヴィナスは活動期の舞台はフランスだった。フランスを知っているキリスト者というと、高橋たか子を思い出す。
高橋たか子の『亡命者』『君の中の見知らぬ女』『きれいな人』と、著者自身が体験したフランスを小説にしたものがあるのだが、『他者と死者』と書かれ方は違ってはいるけれど、まったく同じことを違う角度から書いているように思えた。
フランスのそのもの自体ではないかもしれないけれど、非常にフランスに接近した両者の作品なので、そこに見出したものは限りなく、近いのかもしれない。
いくつもの概念が、気になったが、その中で特に記しておきたいのは次のものだ。
- 沈黙交易
これは、お金など価値があらかじめわかったものの等価交換ではなく、未知のものを未知の人と交換する文化らしい。
- 知りたいという欲望
師弟関係があるとき、徒弟が師を仰ぎ続けるための条件。すなわち、徒弟自身が師の知りたいという欲望に照らされて、その欲望を自分の欲望に錯覚させるくらいのもの。
- 志向性
レヴィナスは「志向対象は存在することを要件としない」とした。それはフッサール現象学の「対象という観念よりもむしろ意味という観念に優位性を与えた」への批判である。フッサールが志向対象が存在することを前提にし、「光りのうちで、対象を十全対応的に看取する」としたが、レヴィナスは一方、対象は見えず、触れられず、くまなく看取することなど思いもよらないにもかかわらず、たしかに主体に切迫しうると考えた。
他にも、たくさんの概念やモデルが出てきていたが、わたしは一番重要なのは志向性な気がした。これが、高橋たか子が書いていた小説の構造なのだろう、と、思った。
この本を読み、気になったテクストをいくつか、記しておこう。未来の自分が読むための資料として。
2010年08月25日(Wed)
■ コンテクストと文脈
コンテクストは、文脈ではない。コンテクストは、テクストの言外に置かれた、テクストの意味を通じさせるための含意または背景だ。(テクストは明言化された言葉、文章を指す)。
コンテクストについては、『開放系言語学』の説明がわかりやすかった。言語人類学では、マリノフスキーがトロブリアンド諸島のフィールドワークで、多くの言語資料を手に入れたが、それを母国のイギリスでどう説明するかを思案したところから、意味を持った文章には、テクスト(言語そのもの)とテクストの言外にある、テクストの意味を説明するための注釈(コンテクスト)が見出される。
わたしが「文脈」と言っていたものは、コンテクストとは異なり、これはむしろ、ナラトロジーや、ナラティブというもののようだ。
■ パターンランゲージにおいてフォース<制約>が重要なわけ。
パターンランゲージは、利用者主体によって表された、(利用される)知の記述だ。と、仮定する。
パターンランゲージはパターンの集合で、パターンは、ある程度、定型的(テンプレート)となる形式/項目があり、そこに、内容が記述される。
タイトル ●状況 ●問題 ●フォース1 ●フォース2 ●解決 ●結果
「フォース」は制約とも訳されるが、二種類の異なる方向に働く力が記述され、その異なる力を解決する方法が「解決」に記述される。これは、落語の三題噺の構造にも似ていると言われている。
これは難しい。わたしは問題からフォースを導き出すのがとても苦手だ。
これを解決するわけではないが、今日、つらつらと考えていて、なぜ、パターンランゲージでフォースが重要であり、難しいのか、そのヒントが見えた気がした。
パターンランゲージ自体は形式知なのだが、その内容は暗黙知であることが期待されている。暗黙知は、それそのものを語ることは避けられ、消極的な否定の形式で語られるという性質を持つ。暗黙知のその性質を打ち破り、形式知化するために、強力なフォース<制約>が必要となる。
と、考えたところで、フォースがぽこぽこ思い浮かぶということは一切、ない。
2010年08月26日(Thu)
■ Wikiとオーガナイズ(組織化)
前回:WikiとWikiばなについて考えている。 - shinoのときどき日記(2010-08-17)
前回は、Wikiにはまだオーガナイズに関する議論が残っている、と、わたしは考えた。
そこで、図書館に行って、366.3の書架を眺めて、驚いたことがあった。『ウィキノミクス』が366.3に収められていたのだ。366.3は、組織、主に経営などの組織論や組織学習について扱っている本が背表紙を見る限り、多くならべられているのだが、これを見たとき、「あぁ、やられた」と思った。世界はとっくにWikiをめぐるオーガナイズの議論を走らせているのだ。わたしは何歩、遅れているのだろう。
そして、もう一冊、この本を目当てにその書架へ行ったのだが、『フューチャー・オブ・ワーク』を手にとって、ふたたび、「あぁ、やられた」と思った。『フューチャー・オブ・ワーク』は日本の売り方だとビジネス書の範疇になっているようだが*1、本当はそういう本ではなくて(もちろんそういう側面もあるけれど)、MITコーディネーション・サイエンス・センターの設立者であるトマス・W・マローン氏がIT技術が企業などの組織にどういうインパクトを与えるかというのを解説した本なのであった。
『フューチャー・オブ・ワーク』では、IT技術の登場によって、情報伝達のコストが下がり、その結果として意思決定の分散化、つまり、民主化が推進されるとしている。組織は、従来の一首専制的なトップダウンの意思決定よりも、分散化され意思決定が下位に委譲されるという世界像を書いている。この中で、Wikipediaは意思決定の権限が分散化された成功例として事例紹介されている。(pp.69-pp.73)
日本語で「組織」と言った時には、すぐに企業がイメージされるが、じつは、もっと深い気がする。漢字の「組織」を分解すると、「組」と「織」である。分散化は「問題にかかわる者を意思決定に参加させること」(p.24)と定義されているので、「組」というのはこの単位の人の集合を言っているのだろう。そして「織」はそういう組と組を「ゆるやかな階層」として1つの大きな集合の中に位置づけることだと思う。位置づける、または、依存関係にあるまとまりを作る。
まだ、全部を読み込んでいないけれど、「分散化」「ゆるやかな階層」「調整」…このあたりを今後、本を読んで自分なりに整理してみたい。
2010年08月27日(Fri)
■ 「メディアはメッセージである」と「コンテクスト化の資源」
ある人にお礼の言葉を言いたい。その時、さまざまな手段がある。会って言う。電話で言う。手紙に書く。メールに書く。twitterに書く。ウェブ日記に書く。
電話、手紙、メール、twitter、ウェブ日記。どの媒体を伝って、お礼を伝えるのがふさわしいか、それはケースバイケースで様々だろう。しかし、どのような媒体を選ぶにしろ、その時、わたしは、意識的/無意識的に、または文化的に、相手との(心的/物理的な)距離的に、さまざまな条件を加味して、もっとも効果的な媒体を選ぶということをしていると思う。
メールよりも手紙の方が丁寧さが加わるという文化のもとであれば、手紙で伝えるだろうし、そんなに重々しくしたくない時は次にその人に会う時まで待つかもしれない。
同じ、お礼の言葉、「ありがとう」を伝える時に、言葉遣い(テクスト)以外にも、こんなにも、それを伝えるにふさわしいメディアや、そのコンテクストを考えている。そんなことがある。
そのように、テクスト以外の領域で、メッセージ性を付与することを、メディア論では「メディアはメッセージである」と言い、言語学では「コンテクスト化の資源」と言う(らしい)。
■ 「メディアはメッセージである」と「コンテクスト化の資源」の違い
上記のように、テクスト外の領域で、メッセージを付与する性質を、メディア論では「メディアはメッセージである」と言い、言語学では「コンテクスト化の資源」と言うと述べたが、両社は完全に一致した領域を指しているわけでもなく、やはり、それぞれに重なる部分、重ならない部分がある。
メディア論の「メディアはメッセージである」と言った時には、それは媒体を指す。一方、言語学で「コンテクスト化の資源」と言った時は媒体だけではなく、たとえば、テクスト中の言葉の使い方、具体的には呼称(苗字で呼ぶか、様をつけるか、○○ちゃんとするか)を場面に応じて使い分け、そのことによってメッセージ性を付与できることもある。
2010年08月28日(Sat)
■ 中世ヨーロッパの修道会
おおきな流れ。
ヨーロッパの世界の根幹を作っていた王権政治は、その権力の正統性として、ローマ教皇による神権授与に頼っていた。そのため、王権とローマ教皇(ローマ教区)は中央集権的な巨大な富と力を持っていた。
その中で、公権力のあまり及ばない、つまり都市部から遠く離れたプロヴァンスから出てきた修道会がクリュニー修道会である。王侯貴族の出家の先としてあったため、クリュニーの修道士たちは、ひたすらに典礼栄華に極めた。しかし、クリュニー修道会はフランス革命の時に、王侯貴族もろとも、市民らに建造物も、組織も打ち倒される対象となる。
一方、今に続く修道会が2つある。ひとつはシトー修道会で、もう一つはフランシスコ修道会だ。
シトー修道会はクリュニー修道会から200年後、同じくプロヴァンスから発祥する。シトー修道会は、不労所得を嫌い、日課の中に労働を取り込んだ。また、修道士の他、助修士と呼ばれる労働専門の修道士も取り入れた。助修士たちは、グランギアという集団を組み、修道会に寄進されたもののシトー修道会が日常を過ごすには離れた地へ常駐し、その地の開拓を行った。ちょうど農業革命と重なり、グランギアの派遣により農業技術はヨーロッパ各地に広まった。最盛期には全欧で6000ものグランギアがあったと伝えられている。
フランシスコ会の話に行く前に、中世ヨーロッパの異端について語る。クリュニー修道会もシトー修道会の修道士たちも、社会の中では富裕層、権力層の出身者が多かった。ところが、十字軍の遠征による広い地域の交流や、商人たちの台頭により、ピラミッド型の権力構造があるとするならば、王族から富裕層といった上位の人々よりも、もっと下位の身分の人たちが、信仰を求めることになる。
中世ヨーロッパの異端はさまざまにあるが、新しい層、たとえば貴族よりももっと身分の低い商人や周辺地域の人々がキリスト教化する時に、従来のキリスト教層が反発として、異端とし迫害した。代表的な例として、バルカン半島からきた二元論的な信仰を持つカタリ派や商人主体のヴァルデス派などが、異端とされた。
フランシスコ会は、アッシジのフランシスコを始祖とする修道会だが、富を持つことを極端に避ける清貧の思想が大きな特徴で、商人よりももっと身分の低い財産を持たない層までに、普及した托鉢修道会である。カタリ派やヴァルデス派が異端とされたように、異端となる要素はあるのだが、フランシスコは信仰を持つ者、個人に対する日常の規範は示したが、人々が集団化し、フランシスコ会として組織化する時に、その制度づくりについては、ローマ教皇に指示を仰いだ。これが、フランシスコ会が異端を免れたひとつの理由らしい。
■ tDiary会議&tDiary3.0.0リリース
RubyKaigiに来てます。tDiary会議でtDiaryの3.0.0リリースを目の前で見ちゃいました。(プロジェクタにリリースする方のマシンのモニタをうつしてくれてたのだ)。
ということで、さっそく、svn upで、追随してみました。
■ RubyKaigi2010、2日目の感想。
詳しいレポートはたぶんどっかにあがると思うので印象に残ったことを書きます。
tDiary会議
わたしの一番の目当てはこれ。一応、ウェブ上の自分のホームは、ここのtDiaryだと思っているので、その開発者が集うとなれば、目が離せない。
昨年も出席したのだけれど、この一年の大きな変化としては、コミッターさんがRackeRake対応ほぼ完了しているのと、tDiaryのリポジトリがgitになったこと。今年新規に出た話題は、コミッターのhsbtさんによるtDiaryの自動テストのデモ。詳細はたぶん、まちゅさんがあとでupしてくださると思う→tDiary 3.0 時代のテスト方法 (steak/capybara, rack, bundler) - まちゅダイアリー(2010-08-28)。
わたしのようなコンソールでsvn upしてバージョンアップに追随するユーザには、上記ふたつはとても遠い先っちょの世界なんだけど、どうも自分の環境がとてもレガシーであることに気づいた。まだ今ひとつ理解が追いついてないんだけれど、どうもウェブサーバの世界が、わたしの認識よりもかなり変わっているみたい。わたしはレンタルサーバの上でCGIでtDiaryを動かしているんだけど、最近は次のような環境の上でtDiaryを動かすというのもあることがみんなの意見だしでわかった。
- CGI on レンタルサーバ ruby1.8.5/1.8.9 ←レガシー言われた
- CGI on IIS7Windows ruby1.9
- FCGI on VPS ruby1.9
- FCGI on myServer ruby1.8/1.9
- rack
昨年までは「まだ先かなぁ」と言われてたrackrake上でtDiaryを動かすという方向がかなり具体的に動いているらしい。rakeはまだ理解しきれてないんだけれど、makefileみたいなものかと思ってたら、どうも何やら違うぽい。rakeだとtwitterのOAuth認証などがやりやすいらしい。makefileでありながら、ライブラリも提供しているということかな?つまり、makefile以上の世界ぽい。何それ。今度調べる。*1
わたしはさくらインターネットのスタンダートプランなので、sshができるので、ある程度までは追随できるような気がするけれど、ftpでtDiaryを使うユーザはどうなっていくかな、と、ちょっと思ったり(たとえば人に頼まれてサポートでblog系ツールを入れるのに、もし、ftpだけでインストールできないようならば、その場合は見送ることになる気がする)。
ほかにあった大きなトピックとしては、hsbtさんによるtDiaryの自動テストデモ。まだcore部分の自動テストまでいくには時間がかかりそうだけれど、出力系をテストコードで繰り返しテストできるようなので、これはいろいろとtDiaryに可能性が出てきた予感があって、楽しみ。
フレームワークとは何かについて教えてもらう。
今まで、ライブラリとフレームワークの違いを理解していなかったのだけれど、懇親会で人を捕まえて教えてもらった。
わたしの理解できる範囲の事例に置き換えて教えてもらったところ、tDiaryはプラグインを書くときにイベントハンドラを起点に書く。tDiary自体がフレームワークであって、開発者はイベントハンドラの内部で、あれやこれやを機能追加する。イベントハンドラの集合体がフレームワークだと理解した。
RubyにはRailsというフレームワークがあるらしく、今回出ているWebDB+PRESSに解説があるとのことで、ちょっと明日チェックしてみようと思う。
「はじめてのRuby」を購入して著者サインをもらう
第十回Wikiばなで、わたしは名札を作成するRubyスクリプトをかなりべったべたに書いた訳なのだが、今回、RubyKaigi2010用名札生成ジェネレータというのが出てきた。で、そのソースがgitにあるわけなのだけど、それを読んでおっどろいた!わたしがべったべたに書いた数十行のコードがたった6行にまとめられているのであった。
今はそのコードはちょっと変わってしまっているのだけど、それを読んだ時は、mapというのが使われてて、ネットで調べてみたのだけど、よくわからなかった。そこで、本屋に行って、mapを解説している箇所をそれぞれ読み比べてみたら、『はじめてのRuby』という本が一番わかりやすかった。
それで今日、会場のジュンク堂出張店でそれを購入してぱらぱらと読んでみてるところなんだけれど、この本は、なんというか、ちょっとすごい。どうすごいかというのを説明しづらいんだけど、まるで文学を読んでるような感動すらする。読んでるだけでなく、実際コードが書けないとダメだろうけど、ちょっとこの本を起点にRubyも勉強しはじめてみようと思った。
Wikiの話をする
どこに行ってもわたしの悪い癖はWikiの話をしはじめてしまうことにあると思うのだけど、懇親会でその話につきあってくれる人がいて、かなりおもしろい話ができた。
いま、Wikiを巡っていくつかもやもやしていることがあるんだけれど、その1つに、「なぜ日本語WikiはC2Wikiのパターンランゲージのような創造的なドキュメントが出てこないのか。いつもテンプレを作ってしまって、あとは穴埋め式だったり、Wikiページ上のドキュメントは構造化されすぎた文章の気がして伝わってくるものが少ない」という問題だ。
これに対するひとつの事例として、C2Wikiがある。ウォード・カニンガムが作ったC2Wikiは今でも稼動してて3万数千ページに達している。そして、ひとつだけではなく、いくつものパターンランゲージを生み出す場にもなっている。
おおざっぱにくくるのもアレだけど、日本語WikiとC2Wikiは何かが違う。一番大きいのは、WikiNameの問題だろう。アルファベットの英単語で綴られたC2Wikiのページ名は、そのまま、パターン名としていける。でも、日本語Wikiでパターン名的なものは少ない。通常、単語ベースでどうしても辞書的、まとめ的なものに使われてしまう。この命名のセンスは何だろうなぁ、など。
他にもたくさん、おもしろいお話を伺うことができて楽しかった!
2010年08月30日(Mon)
■ Wikiリテラシー本?"The Digital Writing Workshop "
The Digital Writing Workshop(Troy Hicks)
未入手、未見本なのですが、ちょっと気になったので、メモ。
以前、子供たちに「Wikiリテラシー」を習得させることは可能か | WIRED VISIONという記事を読んでWikiを使ったライティングの教育というのが、気になっていたのだけれど、それの実践風な本…なのかな。
この本は、2009/9/10に出版され、著者はミシガン州立大学の英語の助教で、オンラインのライティングワークショップをメインに活動をされている方のよう*1。著者ブログはDigital Writing, Digital Teaching - Integrating New Literacies into the Teaching of Writing。
amazonの書籍説明を見ると、次のようにある。
In each chapter you ll learn how to expand and improve your teaching by smartly incorporating new technologies like wikis, blogs, and other forms of multimedia. Throughout, you ll find reference to resources readily available to you and your class online. He also includes a practical set of lessons for how to use wikis to explore a key concept in digital writing: copyright.
あと、レビュー記事を書いている人、教育現場の人のようだけれど、次のように書いているのも興味深い。
I have used wikis and nings with my students, but this is the first year I have ventured into letting my students support their own personal blog.