2011年03月03日(Thu)
■ 女子力Hacks研究会 ひなまつり編
@kasoken ことうちだまりかさんの招集がかかり、高橋さんをスペシャル講師として、女子力Hacks研究会、第二回が銀座のラデュレでアフタヌーンティーを囲んでとりおこなわれました。参加者は、yucoさん、にじむさん、まりかさん、講師高橋さん、そしてわたし。
講師の高橋さんは、着物力、スイーツ力については、ちまたの女子の群を抜いて力のある方で、研究会の時は、ご自分が女子力について学ぶと勘違いされていた上、「なにこの女子力にまったく気がない人たち」というハンドアックスまで投げてくださったのですが、わたしたちは高橋さんから女子力の片鱗を学ぶことができました。…できたと思う!できたことにしよう!
話題はさすがこのメンバーだけあって、知性高く多岐にわたり、大変実り豊かな楽しい時間でした。ありがとうございました。
- 関連するブログ
- 第2回女子力Hacks研究会 - KASOKEN satellite うちだまりかさんによるレポートです。こちらのほうが詳細!
2011年03月10日(Thu)
■ 聖書の学び会、4年かけて1つめのテキストを終えられました。
教会で、3人で、聖書を読む学び会を4年ほど続けてます。 今日、最初の一冊のテキストを終えることができました。 テキストのテーマは、アブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデ。 な、長かった!でも終わるものですね。しみじみ…。 (聖書を読むことは終わりませんが、ひとつのテキストを終えられたという達成感に今日はちょっとしみじみしていました)。 最初から終わりまで、導いてくれたイエスさま、そして、共に歩んでくれた仲間に感謝です。
もしかしたら、どなたかの役に立つかもしれないので、 参考程度に、わたしたちの学び会のスタイルを記しておきます。 これは、あくまでも参考程度で、これが絶対的な学び会のスタイルではありません。
この学び会は、2時間程度の集まりで、 前半一時間は聖書を学び、後半一時間はお茶会です。 基本的に週一回開催、けれど、こどもの長期休暇や行事の時は それにあわせておやすみするという、ゆったりしたペースで続けています。
前半一時間の学びは、次のようなプロセスですすめています。
- 司会者の確認(3人で回り持ち)
- 司会者によるはじまりのお祈り
- 聖書輪読
- テキストで指定された箇所
- 輪読は、3人で1節ごとに音読
- 読む聖書は、3人とも、異なる訳の聖書(口語訳、新共同訳、新改約)
- 内容は同じなのだけれど、表現が異なることがある
- 時には節がズレていることもある
- たまにそういったことを確認しあいながら、読み進める
- テキストの問題を1問ずつ考える
- テキストの質問を司会者が読む(そして、なるべく聞き役にまわる)
- みんなで質問に対する答えを聖書から探す
- よくわからない箇所がある場合、だいたい次のような順番で答えの糸口を探す
- (1)聖書の脚注に示されている参照箇所を読む
- (2)英語(NIV,NKJV)などの表現を確認する
- (3)さらによくわからない場合は、辞書を引く
- (4)必要があれば聖書の付録の地図を参照したり、聖書の事典を確認する(でも参考程度)
- (5)あまりにもわからない場合は、わからないままにする
- 次回の日程の確認をする
- 次回の司会者がおわりのお祈りをする
後半1時間はコーヒーと茶菓子をいただきながらフリートーク。 いろんなお話を交わしてきました。
ところで、教会内で、さらに小さなグループになって学び会うというのは、 2005年に出会ったこの本がきっかけで、信仰にとって、その重要性を知りました。
1999年に洗礼を授かったわたしですが、 教会内で親しく話せる仲間もいず、 ひとりでふらふらしているクリスチャンでした。 2005年に、この本によって、自分がクリスチャンの仲間に飢えているということに気づきました。 信頼できて、祈りあえ、信仰をシェアできる、小さな仲間が、(おおげさでなく)自分が生きるのに、必要だったのです。 スモールグループが自分にも与えられるように祈って求めた記憶があります。 そして、2007年の後半ごろから、今の仲間が与えられ、学び会(スモールグループ)を始めることができました。
この仲間と学び会がわたしにぴったりだったのは、ともかく、聖書を「読む」ことにとても熟練していたということです。 教会内には、いろんな賜をもった方がいます。ある方々は音楽だったり、ある方々は料理だったり、 ある方々は手仕事だったり、そうした賜をさらに活かせるようなグループの在り方もいろいろとできると思います。 今回は、「読む」志向性の強い仲間が集まれて、本当によかったです。
また、『スモールグループから始めよう!』を翻訳してくださったはちこさんにも感謝です (^_^) 本当に、祈って、それが御心ならば、神様はおしみなく与えてくださる方ですね。すばらしいですね!
2011年03月17日(Thu)
■ わたしはあなたを見捨てない
島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。
だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。
彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。
だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。
島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいて来た。
彼らは互いに助け合い、その兄弟に「強くあれ。と言う。
鋳物師は金細工人を力づけ、金槌で打つ者は、鉄床をたたく者に、はんだづけについて「それで良い。と言い、釘で打ちつけて動かないようにする。
しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。
わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
イザヤ書41:1-10。
主よ、今日も一日、歩いたことのない道を歩むわたしたちとともに歩んで下さい。
2011年03月19日(Sat)
■ わたしのしんどいことの正体
終わりが見えないってのが、一番、しんどい。お産といっしょ。陣痛と同じで、間隔があるはずだから、うまくそれをつかんで、呼吸をしたりいきんだりしよう。
2011年03月25日(Fri)
■ 終わりが見えないということ自体がストレスであることを自覚した上で。
難しいことはよくわからないのだけど、女の人は肉体的にお産を経験しているかしてないかってのは、男性と違う感じがする。お産の、あの痛み自体じゃなくて、「いつ終わるのかわからない」苦痛への耐性。既にわたしの周りの女性コミュニティは「長期戦である」という態勢へシフト。
「終わりが見えない」ということ自体が、とてつもないストレスなのは自覚した方がよいとわたしは思っていて、少しばかり有効な手段は、手を動かす。ハックする。小さく何かをリファクタリングしていく。
食器を洗う、料理をする、掃除をする、どこかひとつがすとんときれいになる。そのことに感謝する。それを繰り返す。積み重ねる。
2011年03月26日(Sat)
■ 黙想すること。
キリスト教用語かもしれないのだけれど、「黙想」という言葉がある。
沈黙に似ているけれど、沈黙は他者に対して自己に対して静まりかえって黙するというニュアンスがあるように思うけれど、一方、黙想は一見他者から見れば沈黙しているように見えるかもしれないけれど、自己の内部において沈黙とは異なる。
黙して、想う。思い巡らす。
何を思うのか。
はじめは、わずかな聖句を思い巡らす。
その聖句からふっ、ふっ、と、関連してわき上がってくることを無理矢理、押しとどめずに、また握りしめすぎずに、さらに巡らす。巡らせる。わいてくることをせき止めず、巡らす。
思考とも違う。念じるとも違う。
これをなんと説明したら良いかわからないけれど、なるべく言葉に耳をすます。
自分の中を、自分の声ではなく、聖句で満たしていく。満たされていく。
主はわれをみどりの野にふさせ、憩いの汀にともないたもう。