2015年01月01日(Thu)
■ 2015 年間聖句 テモテヘの第二の手紙 二章八節
ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。
Remember Jesus Christ, raised from the dead, descended from David. This is my gospel,
昨年は、一年を通じて、年間聖句(詩篇74:16)に何度も何度も救われました。そして、みことばを握りしめ、みことばに寄り頼み、みことばを行動するこれらのことがもたらしてくれる恵みの大きさを思うと、もう、イエスさまと福音なしでは本当にわたしは生きていけないと思わされるのです。
今年の年間聖句はテモテへの第二の手紙に示されました。この箇所はシンプルですが、少し複雑で、いかにも聖書的な多層的な読みが必要となる箇所です。なぜなら、この箇所には四人の人物がかかわっているからです。
直接名前があがっているのは、二人です。ダビデとイエス。
ダビデは、旧約聖書で偉大な信仰者、偉大な王、偉大な賛美者として誉れ高い人物です。ダビデも人間ですから罪を犯しました。敵にも攻め立てられました。しかし、その苦難にあって主なる神のみをより頼み、ほめたたえ、望みを主なる神様におき、そのことで、神様に「よし(義)」とされ、神様からいつかダビデの家系からメシア(救い主)が出るという一方的な契約を与えられました(歴代誌 第一 17:10-15)。
そして、その系図の子孫として生まれたイエスさま。イエスさまは神でありながら人としてこの世に降誕し、メシアとして人の罪を赦し、信じる者に永遠の命を与えるために、メルキセデク以上の大祭司、モーセ以上の預言者、ダビデ以上のユダヤ人の王でありながら、十字架にかかり、死んで、冥府にくだり、三日目に蘇って、今は天におられます。(と、同時にキリスト教では父子聖霊の三つで一つの神様を信仰しているのですが、天におられるイエスさまは、聖霊という神の霊により、今もわたしたちと共に居てくださる存在なのです)。
イエス・キリストを思う、それも、死人のうちから蘇ったイエス・キリストを思うことは、闇、罪、悪、死に打ち勝つためのただひとつの道です。罪の報酬は死でありながら、イエスさまはあわれみ深く、罪人を招いて「あなたを罪に定めない」と言ってくださる方です。それは神様にしかできない技です。それができるイエスさまは、天地創造の時に神さまが発した「光あれ」という言葉であり、そのまことの光、神さまそのものなのです。
人間、目を閉じるとどうですか?真っ暗でしょう。肉の中には光がないのです。目を閉じたら暗くなるということでわかりますよね。けれど、イエス・キリストを思うこと。それは心で、魂で、精神でまことの光であるイエス・キリストという存在を思う時、目を閉じたら暗い、闇の人間の肉体の中に、光がぽっと宿るのです。その光を頼りにして、歩むことができるのです。
もしも、わたしの心のうちに闇があってそこに不安や恐れ、悪口、妬みなどが渦巻いたとしても、「イエスさま」とまことの光である方のお名前を呼び、心に迎え入れるならば、すでに死に打ち勝っているイエスさまがその闇を打ち砕いて、そして、御霊の実*1をくださいます。
なんてすばらしいことでしょう。
この手紙を書いた使徒パウロは、イエスさまが天に昇られたあとにご復活のイエスさまに会いました。そしてイエスさまについての宣教活動を共に担うテモテへ、伝道者、宣教者、教師としての在り方を示したのがこのテモテへの手紙です。
わたし自身は一般の信徒で、伝道者でも宣教者でも教師でもないのですが、ノンクリスチャンホームで、でもあつかましくも「わたしはクリスチャンです」と名乗らせてもらっているのですね。周囲の人たちは、やさしくて、わたしの信仰を尊重してくれるのでそのことは本当に感謝なのですが、とても厚い厚い壁があってなかなか神様の愛を伝えられない。どうしたら良いかわからない、そんな中にあって、このみことばを年間聖句として今年一年、時が良くても悪くても、主をほめたたえつつ、恵みを受け、自分を愛するように隣人を愛せるよう歩ませてもらえますように。
*1 22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 23柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 (ガラテヤ人への手紙 5:22-23)
2015年01月07日(Wed)
■ ZenFone5とiPod touch5thの二台持ち生活
ZenFone5を購入して二週間くらいが経ったかと思います。
以前はiPod touch 5th+PHSの二台持ちでしたが、外出時は基本オフライン、データ通信はできないし、めったに電話を使わないので一ヶ月くらい充電切れたままPHS置きっ放しなんてこともよくありました。
今はZenFone 5+iPod touch 5thの二台持ちです。いまはこんな使い分け方をしています。
- ZenFone 5
- データ通信
- Bluetooth デザリング(親機)
- 片耳ヘッドセットとBluetooth 接続
- 音楽鑑賞
- 音声通話
- 電子書籍の読書
- カメラ
- データ通信
- iPod touch 5th
- メール送受信
- ウェブサーフィン
- テキストエディタ(textwell 手放せない)
- 聖書通読
- ドキュメント整理
- Evernote
- Brotherスキャナー
- Midi ←使いこなせてない
- カメラ
ZenFone 5はサイズが大きく、わたしの手にはエディタ的な入力にあまり向いていないので、その部分はiPod touchでまかなっている感じです。
二台持ちのメリットは二つあります。ひとつ目は同時に見れる画面が増えたこと。今まで、iPod touch のシングル画面が、ZenFone と合わせると二画面になったので、読みながら調べたりメモをすることが楽になりました。ふたつ目は電池の持ちです。iPod touch 一台で全てをまかなっていた時よりも二台にやることを分けた方がそれぞれの電池が持ちます。
まだこれから用途に合わせて使い方や使い分け、または連携させていく工夫ができるなと思うので、楽しみです。
2015年01月08日(Thu)
■ エペソ人への手紙にあるパウロの祈り
こういうわけで、わたしはひざをかがめて、 天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。 どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン (エペソ人への手紙 3:15-21 JA1955)
聖書からの引用です。ここのところ、聖書から聖句をtwitter に投稿してるのですが、ちょっとここは長いので、日記に。
これは祈りであると同時に、信仰者に成長過程があることを示されてます。はじめから完璧なクリスチャンはいません。
人が成長するには、祈りとキリストの愛を基に生活し、そして、愛を知って、愛に満たされる必要があることがわかります。
2000年も前の人に、祈られていたのだなぁ、と。
2015年01月10日(Sat)
■ ひつじたちの小さな群れ
主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。 (イザヤ書 40:11 JA1955)
恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。 (ルカによる福音書 12:32 JA1955)