2015年09月07日(Mon)
■ 中村佐知さん 『心の刷新』講演会
いつもアメリカの福音派のキリスト教書を翻訳して、日本に紹介してくださってる中村佐知さんが九月中、シカゴから日本にいらしてるということで、この機会にと、あめんどう出版さんが企画して、『心の刷新』講演会をお茶の水クリスチャンセンターで開いてくださいました。
今回のポイントは霊的形成でした。
「何のために霊的形成があるのか?それは自分のためではなく、他者のためです。他者のために、キリストと似た姿になる。人に祝福を与えるために」というのが目標だそうです。
- クリスチャンの霊的形成は、神様が造り変えてくださることに任せることに重きをおく
- わたしたちは心にスペースを作って神様の働きを受け入れるよう意識する(修練)
- 他の人と自分を比べるのではなく、以前の自分と今を比べてみる
例)
「わたしはこのごろ、以前より苛立ちやすくなっているだろうか?あまり苛立たなくなっているだろうか?」
「わたしはこのごろ以前より気落ちしやすくなっているだろうか?あまり気落ちしなくなっているだろうか?」など。
問いは自分用にカスタマイズする。みんなそれぞれ違うから。
- 方向性は、神と人を愛せる方向に向いていればよい
以上が霊的形成のおおまかな内容だと思いますが、幾つか、修練が紹介されてました。ここで言う修練とは、心にスペースを作って神様の働きを受け入れやすくする方法です。大切だと思ったのは一つの方法に固執するのではなく、自由に切り替えてゆく柔軟性です。
1. 御言葉に思いを巡らす修練 ex. レクチオ・ディヴィナ
2. 祈りの修練 ex. 観想的な祈り、主の祈り、祈祷書・詩篇を使った祈り、Fixed-Hour Prayer、ふつうの祈り、とりなしの祈り、呼吸の祈り、イグナチオの霊操など
3. 一人になって静まる修練(ソリチュード)
4. 急がない修練
他にもさまざま修練(安息日、休息をとる修練、人に見せない修練、シンプルに生きる修練などなど……)が紹介されました。
印象的だったのは、最近、流行っているアンガーコントロールも一つの修練で、例えば、怒り出す前、何かを発言する前に6秒黙ってみるなどの方法も修練として試してみる価値はたくさんあるということでした。
大切なのは、霊的成長ではなく、霊的形成です。自分で努力してそれらしく振舞うということではなく、あくまでも自分は心にスペースを作るだけで、神様の働きに委ねて自分を変えていただくこと、神様が形造ってくださる、transformしてくださることに信頼することです。
今日はこの御言葉が与えられました。
let God transform you into a new person by changing the way you think. Romans 12:2 NLT
そして、もう一度、繰り返しになりますが、霊的形成は"自分"のためではなく、神さまと人をより愛するため、"他者"を祝福するためにあるのです。
2015年09月12日(Sat)
■ 信仰が深まる?
信仰が深まるってどういうことだろう。
ある牧師は説教で、「信仰が深まると人が周囲から去っていく」って言ってたけど、なんか違うなって思った。
聖書の、特に、プロテスタントは信仰義認という考え方があって、ただイエス・キリストを信じれば神の目からは義なんだという考え方がある。というか、聖書に書いてある。
一方で、信仰は行いが伴わなければ嘘だとも書いてある。
そして、その行いは、新約聖書では神を愛し、人を愛するということだ。
神様の愛につながって、隣人愛を実行していれば、それはなにも隣人に信仰を強要することではなく、相手を考えて、働くことだろう。
聖書に書いてある愛の定義はこうだ。
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 愛はいつまでも絶えることがない。」 コリント人への第一の手紙 13:4-8 JA1955 http://bible.us/81/1co.13.4-8.ja1955
信仰が深まるって、先日の中村佐知さんの『心の刷新を求めて』講演会の中で、クリスチャンの目標は「神を愛し、人を愛する」だと語られていたけれど、上記のすべてを完璧に実行するのは難しいとしても、少しずつそれができるように自分の行いを集中させてゆくことだと思う。
もし、人に対して、寛容で、情深くて、相手の良いところを信じて、喜んで、希望を持ったとしたら、(相手の悪いとこは耐えたり、忍ぶとか…ようするに目をつぶるってことだと思うけどどうだろう?)、きっと全てとは言わないけれど、多くの人と良い関係が築けるように思う。
信仰が深まると、人が離れていくんじゃなくて、人とうまくやっていけるようになると思うんだけれどなぁ。(もちろん、中には離れていく人もいるだろうけれど)。
そういえば、霊的状態のチェックの問診、カスタマイズして作ってみればよいと言われていたけれど、こういう問いを自分にすることもできるかもしれない。
「わたしはこのごろ、以前より寛容だろうか?あまり寛容になっていないだろうか?」
「わたしはこのごろ、以前より情け深いだろうか?あまり情け深くないだろういか?」
「わたしはこのごろ、以前より妬み深いだろうか?あまり妬んだりしていないだろうか?」
「わたしはこのごろ、以前より高ぶってはいないだろうか?あまり高ぶらなくなっただろうか?」
「わたしはこのごろ、以前より誇ってはないだろうか?あまり誇らなくなっただろうか」
……
「わたしはこのごろ、イエスさまのために、あのことやこのことを手放せただろうか?それとも自分のために握りしめているものがあるだろうか?」
「わたしはこのごろ、握りしめているのは、十字架と復活の福音だけというシンプルな生き方になっているだろうか?あまりに多くの雑多なことを抱え込みすぎてはいないだろうか?」
冒頭、信仰が深まると人が離れていくというのは、でも、わからなくもない部分ってある。それは、高橋たか子も書いていたりするのだけれど、神という存在の認知の仕方が、人によって千差万別なのだ。これは、汎神論ではなくて、神様は完全な唯一のお方だけれど、人間側が欠損だらけの土の器なので、人ごとに認知の仕方がさまざまにあるということ。
そして、わたしのイエスさま、あなたのイエスさま、どういう出会い方をしたのかこれまた人それぞれだから、どんなに共有しあおうとしても、共有しきれないところがあって、その部分で、信仰者たちはみんなそれぞれに孤独なのだと思う。けど、その孤独の部分で、イエスさまからの愛を受け止めるのだから、これまた不思議な神様の恵みだ。