2010年08月27日(Fri)
■ 「メディアはメッセージである」と「コンテクスト化の資源」
ある人にお礼の言葉を言いたい。その時、さまざまな手段がある。会って言う。電話で言う。手紙に書く。メールに書く。twitterに書く。ウェブ日記に書く。
電話、手紙、メール、twitter、ウェブ日記。どの媒体を伝って、お礼を伝えるのがふさわしいか、それはケースバイケースで様々だろう。しかし、どのような媒体を選ぶにしろ、その時、わたしは、意識的/無意識的に、または文化的に、相手との(心的/物理的な)距離的に、さまざまな条件を加味して、もっとも効果的な媒体を選ぶということをしていると思う。
メールよりも手紙の方が丁寧さが加わるという文化のもとであれば、手紙で伝えるだろうし、そんなに重々しくしたくない時は次にその人に会う時まで待つかもしれない。
同じ、お礼の言葉、「ありがとう」を伝える時に、言葉遣い(テクスト)以外にも、こんなにも、それを伝えるにふさわしいメディアや、そのコンテクストを考えている。そんなことがある。
そのように、テクスト以外の領域で、メッセージ性を付与することを、メディア論では「メディアはメッセージである」と言い、言語学では「コンテクスト化の資源」と言う(らしい)。
■ 「メディアはメッセージである」と「コンテクスト化の資源」の違い
上記のように、テクスト外の領域で、メッセージを付与する性質を、メディア論では「メディアはメッセージである」と言い、言語学では「コンテクスト化の資源」と言うと述べたが、両社は完全に一致した領域を指しているわけでもなく、やはり、それぞれに重なる部分、重ならない部分がある。
メディア論の「メディアはメッセージである」と言った時には、それは媒体を指す。一方、言語学で「コンテクスト化の資源」と言った時は媒体だけではなく、たとえば、テクスト中の言葉の使い方、具体的には呼称(苗字で呼ぶか、様をつけるか、○○ちゃんとするか)を場面に応じて使い分け、そのことによってメッセージ性を付与できることもある。