2010年08月23日(Mon)
■ 『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』
『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』は、2004年海鳥社より刊行された、フランス現代思想などが専門の内田樹氏によって著作された書物だ。
この本は、ラカンの精神医学を土台に、ユダヤ人の思想家レヴィナスを読解しようという試みだが、学術書と違い、内田氏自身が、レヴィナスをどう読んだかという解釈の書だ。 わたしはレヴィナスもラカンも読んでいないので、どこまで正当性があるのかなど判断はできないが、読んでいて、「これは、わたしは、知っている」という妙な懐かしさを抱いた。
ひとつは、ユダヤ教の教典はキリスト教の旧約聖書と内容が被ること。本編に、モーセ、アブラハムの話がでてきたが、その「読み」は、すんなり入ってきた。
そしてもうひとつ、レヴィナスは活動期の舞台はフランスだった。フランスを知っているキリスト者というと、高橋たか子を思い出す。
高橋たか子の『亡命者』『君の中の見知らぬ女』『きれいな人』と、著者自身が体験したフランスを小説にしたものがあるのだが、『他者と死者』と書かれ方は違ってはいるけれど、まったく同じことを違う角度から書いているように思えた。
フランスのそのもの自体ではないかもしれないけれど、非常にフランスに接近した両者の作品なので、そこに見出したものは限りなく、近いのかもしれない。
いくつもの概念が、気になったが、その中で特に記しておきたいのは次のものだ。
- 沈黙交易
これは、お金など価値があらかじめわかったものの等価交換ではなく、未知のものを未知の人と交換する文化らしい。
- 知りたいという欲望
師弟関係があるとき、徒弟が師を仰ぎ続けるための条件。すなわち、徒弟自身が師の知りたいという欲望に照らされて、その欲望を自分の欲望に錯覚させるくらいのもの。
- 志向性
レヴィナスは「志向対象は存在することを要件としない」とした。それはフッサール現象学の「対象という観念よりもむしろ意味という観念に優位性を与えた」への批判である。フッサールが志向対象が存在することを前提にし、「光りのうちで、対象を十全対応的に看取する」としたが、レヴィナスは一方、対象は見えず、触れられず、くまなく看取することなど思いもよらないにもかかわらず、たしかに主体に切迫しうると考えた。
他にも、たくさんの概念やモデルが出てきていたが、わたしは一番重要なのは志向性な気がした。これが、高橋たか子が書いていた小説の構造なのだろう、と、思った。
この本を読み、気になったテクストをいくつか、記しておこう。未来の自分が読むための資料として。