2010年10月01日(Fri)
■ 甘酢漬け
大根、にんじん、きゅうり、セロリを切って、湯通しして、甘酢に和える簡単な料理だけれども、いくつかレシピに書いていないコツを教わった。
一つ目は、野菜の大きさを揃えること。そのサイズはこどもがフォークやお箸でつまみやすいサイズを考えること。さらに、蒸し昆布も野菜と同じ長さに切りそろえること(野菜より長いのはよくない)。こうすると口触りがよくなる。
二つ目は、甘酢は酢、砂糖、塩、そして蒸し昆布を、あらかじめ混ぜておいて、砂糖が溶けるくらいに電子レンジで温めること。こうすることで、酢の味がまろやかになるし、蒸し昆布から早くダシが回りやすくなる。
三つ目は、湯通しした野菜は、湯切りをしたら、なるべく大きな平たい調理バットに、どばっと広げて冷ますこと。こうするときゅうりが鮮やかな色のままになる。ボールで冷まそうとすると余熱がどんどんきゅうりに入り、色が落ちてしまう。また、間違っても湯通しした後に水で冷却してはいけない。水で冷却すると甘酢が野菜にしみこまなくなってしまう。
酢やセロリといった、こどもが得意ではない材料が入るレシピなのだけれど、喜んで食べてくれる。
2010年10月04日(Mon)
2010年10月08日(Fri)
■ drupalをさわり始めた。
CMSのdrupalをさわり始めた。日本ではまだマイナーな存在のCMSだけれど(わたしが知らなかっただけかもしれない)、 NASAやFireFoxの公式サイトなど海外ではかなり使われているCMSらしい。
さくらのレンサバにさくっとインストールが完了。
今日は、テーマの変更と、ブロック機能について少し学んだ。 ブロック機能とは、ユーザを制限することではなくて、サイドバーなどに表示させるパーツのこと。
明日は、モジュールのインストールなどを試したい。
Wikiがぎりぎりまで塩分をそぎ落として素材の風味を生かす和食ならば、 drupalはぎりぎりまで塩分を入れて素材の風味を盛り上げるフレンチみたいな感じがした。
2010年10月09日(Sat)
■ 『聖書を読んだサムライたち』著者講演会
友人に誘われて、藤沢にある小さな教会で開催された、 『聖書を読んだサムライたち』著者講演会を聞きに行った。
事前に本は読んでいなかったし、竜馬伝は見ていないし、と、幕末の事情に疎かったのだけれど、 それでも、著者の守部喜雅先生のお話は、朗々とわかりやすく、 初めから終わりまで、熱く聞き入ってしまった。
『聖書を読んだサムライたち』は文字通り、 幕末の侍たちがどのようにキリスト教と接触したのかなどを 書いた本らしい(すみません、まだ未読です)。
本では、10人あまりの幕末に活躍した人物を紹介しているけれど、 今日の講演会では、坂本龍馬を暗殺したという今井信郎の話だった。 (龍馬暗殺犯は、さまざまな説があるらしい)。
この人は、不思議な人で、坂本龍馬暗殺後、キリスト教迫害側にも立ったりしたのに、 二転三転、クリスチャンになり、そして坂本龍馬の甥で家督をついだ坂本直と和解をしたらしい。
おそらく、TV番組でやっている龍馬伝のファンの人は、そこが気になるポイントだと思ったのだけど、 わたしはむしろ、今井信郎がクリスチャンになったきっかけが、 横浜の海岸通りを歩いてて、たまたま目についた海岸教会にぶらっと入ってみたら、 たまたま日曜日で礼拝をやっていて、たまたまそのメッセージの取り次ぎ(説教)をしてた人が侍で で、キリスト教に耳が開かれたというのが興味深かった。
教会に、ぶらっと行ってみるというのは、なんだか、わたしの中に在る感覚で、 今日の講演会も、友人に前に声をかけられていたというのはあったけれど、 突然、今日になって行くことを決めて、ぶらっと行って、ものすごい話を聞いてきた。
2010年10月10日(Sun)
■ 毎日、ディボーションガイドの「Clay」というテキスト(月刊誌)を読んで、 聖書を読んでいる。と、言っても、たまに忙しいと数ヶ月単位でお休みしちゃうこともあるのだけど。
「Clay」を紹介する前に、なぜ、わたしが「Clay」を知ったかというと、 2002年前後かなぁ。まだその頃、わたしは教会よりも、 ウェブで日記を書いているクリスチャンとの交わりの方が多かった。 そんなクリスチャンのお友達の一人が、 ディボーションをやっていてとても良いということを日記に書いてたんですね。
ディボーション?何それ?? というくらいに、その頃のわたしはモノを知らなくて。 「ディボーションってなぁに?」くらいの素朴な気持ちで質問したんだっけかなぁ。 ちょっとよく覚えていないんだけれど。
そうしたら、凄い勢いで、そのお友達が 「毎日、聖書を読むことよ。通読とは違ってね、聖書の短い箇所と、 その箇所を説き明かしているメッセージがあってね、 それで、御言が、神さまが自分が何を問いかけられているか考えるの」 というような説明をしてくれて(記憶がうろ覚えなので、この通りの説明ってわけではなかったかもしれない)、 次にオフで会う時に、 なんと、「これ!毎日ディボーションするのって、すっごく良いの!ぜひ読んでみて!」と 実物をわざわざ余分に買っておいて、わたしにくれたのだった。
(それにしても、すごいね。 求めたときに、パッと捉えて、捕まえる、その勢い。すばらしいと思う。 相手がクリスチャンであろうがなかろうが、もっともっとと神さまを求めようとする人に ヘルプを送る力ってのは、わたしはクリスチャンになって11年になるけれど、 まだまだ身についてません…)。
それが「Clay」。その時から、今に渡って、7,8年、わたしはディボーションは「Clay」で続けている。 このテキストは、聖書の箇所と解説の他、ノートを書くページが毎日一ページ分ずつ、 ついているのです。 構成的には、一日4ページで、1ページ目が祈りと聖書の箇所が書いてあって、 2ページ目がノート。3、4ページに解説があって、4ページ目にはちょっとしたコラムがついている。 いまちょっと検索してみたら、ここにサンプルがありました。
で。
ノートは、「精読・解釈・適用・祈り」を書きましょうというようなことが書いてあります。 このね、適用がぜんぜんわからんかったのだ。
精読・解釈・祈りは、わからないでもない。 精読だったら、わからない単語について調べてみるとか、 その箇所を実際の聖書を開いて、他に関連する箇所はあるか調べてみるとか、 そういう知識的な勉強を書けばいい。 解釈は、精読を通して学んだことを筋道をつけて書けばいい。 というところは予測できるけれど、それだって難しい。わたしは書いてない。
適用は、テキストにはこう書いてある。 「その日に学んだ内容を、実生活に適用できるように、ノートに書き出してみましょう」。
しかし、「適用」の意味も、適用するということも、ぜんぜん、わからず…。 ほんっと、わからないままに、ノートを書かずに何年も、なんだか座りが悪いような状態のまま 過ごしてきていたのだった。なんという適当。
「適用」で辞書を引くと、「適用とは、法律や原理や規則をあてはめて用いること」と書いてあるんだけれど、 適用するには、聖書の原則を知らないとダメなんですよね。 一貫した聖書の原則。 それが、肌身に染みつくくらいにわかってないとできない。 いや、センスがある人はできるのかもしれないけれど。
例えば、法律を考えた時に、普段、みんな法律を意識して生活をしているわけではないですよね。 法律の専門家という人たちや、ある特定の分野に特化してお金を稼いでいる人は、 その法律を熟知して、それを現実に適用して問題を解決している。 なんで専門家という人が法律でお金を稼げるかというと、 普通の人は、法律を適用して問題を解決する力がないから、 わざわざお金を出して、法律を知るんじゃなくて、 法律を自分が有利になるように適用させることのできる専門家を雇うのですよね。
「適用」というのは、じつはすんごく難しいことなんじゃないかと思います。 一つ目は、ルールや法律や原則といった事柄を知っていること。 二つ目は、そのルールや法律や原則を、現実にあてはめること。 三つ目は、「適用」と言ったときには、法律や原則を用いることによって、単純に現実がこうであると知るんじゃなくて、そこに問題があって、それを解決することが、暗黙に求められていると思う。 「適用」というのはこの三つが求められるから、すんごく難しい。
ところが、今日、礼拝のメッセージの取り次ぎ(説教)を聞いてて、 ぽろっと、「適用」がわかった。メモと記憶の限りにその時の説教を書き起こすと、こうです。
鶴田浩二という役者さんが、昔、いましてね。
この人が、歌を歌う前に、ちょっとした台詞を読むんですよ。
かっこいいんですよねぇ。それが。
ちょっと恥ずかしいですけれど、真似してみましょう。
「古い奴だとお思いでしょうが、
古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。
どこに新しいものがございましょう。」
これをですね、キリストを信じるわたしが適用するなら、こうなります。
「愛がない奴だとお思いでしょうが、
愛がない奴ほど愛を求めるものなのです。
どこに愛がございましょう」
えっ。
適用って。
適用って、書き換えなの?!
適用って、書き換えだったのか!
(つづきます)。"'}}
2010年10月12日(Tue)
■ ウェブ日記に何を書くべきか/書かないべきか、について考えつつ、書いている。
ここはロバの耳ではなくて、道路なのだ。公道なのだ。 その端でおしゃべりをしているような場所なのだ。 そのような場所で書くにふさわしいことって何だろう。
最近、心と思いの関係について学んだ。
きっかけは、マタイ22:27 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」という聖書だった。
心、精神、思いの違いがよくわからなくて、英語の聖書を見たら、そこにはこう書いてあった。
Jesus replied:"Love the Lord your God with all heart adn with all your soul and with your mind."
- 心=heart
- 精神(魂)=soul
- 思い=mind
soulは、精神よりも魂のほうが、わたしにはわかりやすいので、魂として受け取る。
また、これは、旧約聖書でも見られるパターンで、ただし、旧約だと、構成しているものが新約と少し異なる。旧約だと、「心を尽くし、魂を尽くし、力(強さ)を尽くして」になる。
Hear, O Israel: The LORD our God, the LORD is one. Love the LORD your God with all your heart and with all your soul and with all your strength.
ここからわかることは、旧約では、heart,soul,strength、つまり、「心と魂と"力(強さ)"」だったのが、新約ではイエスがこれを「心と魂と"思い"」と書き換えしているのだ。
この場合の書き換えは、けれど、勝手にしているのとは少し違う。ちゃんと新約(新しい約束/新約聖書)の原則があって、それに基づいて、書き換わっているのだと思う。つまり、適用なのだ。
また、「心」が自分の外界を感知する機能ならば、「思い」は自分の内面を外界にアウトプットする機能なのではないかと、気づいた。
「思い」がアウトプットするものならば、それを表出する人間に備わった器官は唇(言葉)だろう。
「思い」という言葉は、「思想」という言葉に通じる。思想は言葉によってあらわされる。言葉なくして思想はありえない。というような話をここのところ、立て続けに、何人かそれぞれ別方面の人たちから聞いたり読んだりした。言葉、書くことに強い人にとっては、「思い」は言葉であらわされるのかもしれない。
自分から表れるもの、言葉、行動、歌、絵や創作物は、「思い」なのだろう。
ここで、わたしは、日記に書くもの、について、再びふりかえる。
今までは、わたしは、外界から感知した「心」を日記に書こうとしていた。 でも、そうではなくて、心や魂を通過して、自分から表に出していく日記は、「思い」なのだろう。 読むという行為は心に入るものだけれど、書くという行為は思いから発するもの。 わたしは、「思い」を整えていかなくてはならないのではないか。
2010年10月21日(Thu)
■ drupalでブロックを特定カテゴリのノードに表示する。
ウェブ上にあるサンプル*1*2を元に、drupalで特定のカテゴリにあるノード(エントリ)に、ブロックを表示させようとしたところ、わたしの環境(drupal 6.19)ではnode_loadしないとうまく動作しなかったので、node_load版のサンプルを置いておきます。
このコードは、「ホーム > 管理セクション > サイトの構築 > ブロック」で「ページ固有の表示設定/特定ページでのブロック表示:」を「以下のPHPコードが TRUE を返したら表示する(PHPモード - PHPに精通した方専用)」にし、その下のtextareaに配置しました。
<?php // 表示させたいカテゴリのID(タームID 1を任意の値に置き換える) $term_id = 1; // taxonomy/term/id のページで表示したいなら if ((arg(0) == 'taxonomy') && (arg(1) == 'term') && (arg(2) == $term_id)) { return true; } // ノードのページで表示したいなら if ((arg(0) == 'node') && is_numeric(arg(1))) { $nid = arg(1); $node = node_load(array('nid' => $nid)); $terms = taxonomy_node_get_terms($node); if( $terms ){ foreach ($terms as $term) { if ($term->tid == $term_id) { return true; } } } } return false; ?>
2010年10月25日(Mon)
■ 近況。
最近は、お仕事をしています。
今日一日、あれこれ考えて手を動かしてプログラミングして、
そして、はっ、と、今、「この機能を実現するには別の手もある」ということに気づいて、
そこから、「どちらが依頼者が使いやすいだろうか?
使いやすさを導き出すための、質問をするポイントはどこだろうか?」というのを考えてます。
明日は、たぶん、もう一つの手のプロトタイプを作る予定。
ここのところ、そういう日を過ごしています。
何かのために働けるというのは、しみじみとうれしい。
2010年10月31日(Sun)
■ 横浜駅周辺の書店。
相鉄ジョイナスの4階を久しぶりにみたら、栄松堂書店からLIBROに変わっていた。書籍は、文庫本と雑誌が中心だった。
ダイエー5,6階に入っているあおい書店は、1フロア潰し、店内検索機も無くしたのに、前よりも充実しているというか、濃い感じ。『数学ガール』は三巻とも平積みだし、「そういえば『ゲーデル、エッシャー、バッハ』なんて置いてないよなぁ…」と見回したらちゃんと置いてあるし、本を知識の武器として使えるようにちゃんと揃えられている気がした。
有隣堂は、婦人之友社のような販路が大手取り次ぎとちょっと違う出版社のものも置いてあって良し。
ライフセンターは、有隣堂にも置いてないキリスト教専門の出版社の書籍・雑誌が置いてある。
それぞれの本屋の特性を考えながら、「今日はこの書店に行こう」と巡る。