2016年04月07日(Thu)
■ 目からウロコ キリスト者同士の人間関係
今日はカトリックの来住英俊司祭の、人間関係の本を読みました。
教会というコミュニティからの離脱や停滞、そんな中でもし息苦しさや人間関係に躓きを覚えた時にどうすればいいか。
一般的にクリスチャンは祈りと愛を持って…祈りが足りないとか…愛を持って…相手をゆるして…という回答を見ますが、来住先生は「識別と選択」が大切だといいます。
識別と選択は、「識別の努力の結果、わたしはこれを選択しました」という関係で、自分の行動の意思決定、選択はその前に十分な吟味、識別があるということです。
識別は自分本意の尺度ではなく、聖書のいう「神の国」という視点が大切ですと説かれてました。
あと、識別の対象は「ある行動を実際に起こそうとする心の働き」で、悪いパターンと善いパターンがあると。
悪い心の働きは、周囲の人に同情や理解を求めたいとか、思わせぶりや気取りがあるとか、秘密にしたいとか、自己正当化が強いとか、妄想で被害者意識があるとかのようです。
善い心の働きは、一人で穏やか、率直になれる、人に知られても構わない、自分は正しいと自分に言い聞かせる必要がない、悪い方向へ想像が勝手に走らない、開けて解放感があるような感覚があるようです。
何か行動をしようとするとき、自分の心がどちらの状態にあるのかをよくよく内省し、「わたしの願いではなく、神の御心が行われますように」と祈り、この祈りは識別を助けてくださいという祈りであって、「わたしは選択しません」という意味ではないとバッサリ明記されてるように、思考停止にならないで、行動の選択をすることが大切なんですねぇ。
ただ、神様の御心と祈る時にテキストに書かれたような思考停止の他、律法主義に陥りそうな懸念がありますが、それは自己正当化が強いということになるので、そうではなくて、自分は正しいと言い聞かせせることなく率直になれるところまで徹底的になる、そのプロセスは人によって紆余曲折がありそうに思います。その紆余曲折の時間が識別の時間で、大切に思います。
最後に「善意を持って、精一杯の識別を行って、なお誤った判断をした者を、主が過酷に裁かれることはないと信じましょう。」とあり、そしてまた、精一杯の善意をもって識別しても、心の奥底で神様の視点からみたら「自分は大きな思い違いをしているかもしれない」という可能性を認めていることも大切だと書かれ、ここに謙遜が生まれるのだなと思いました。