2016年04月12日(Tue)
■ パウロの祈り
トルコにエフェソスという港町がある。現代では、トルコで一番大きな港湾都市であるイズミールに次ぐ、二番目に大きな港湾都市だそうだ。
わたしは、もう20年も前になるけれど、エフェソスを訪れたことがある。
そこには、ギリシャ風な神殿の遺跡などと一緒に、イエスの復活ののち、エルサレムから去ったイエスの母マリアが使徒ヨハネと晩年、生活したと言われる建物があった。つまり、異教の神々を祀る土地の片隅に、イエスの母マリアと使徒ヨハネは暮らし、初代教会の一つを組み上げたのだ。
使徒パウロは、当時、使徒ヨハネと主イエスの母が居たか、その霊的な痕跡の力強い土地へ、かつ、異教の神々に囲まれて霊的に困難な土地へ、万感の想いを込めて、手紙をしたためたのだろうと思うと、この手紙の霊的な力強い励ましの言葉が、すんなりと入ってくる。
この祈りはキリスト者の霊性の方向性を愛に定め、父なる神の栄光と富、聖霊の働きにより、イエス・キリストが心に住われることを基礎として、つまり、父子聖霊の三位一体の神との親しい交わりのなかで、キリスト者が愛に根ざし愛に基づいて生活することを願っている。
父子聖霊の親しい交わりのある、愛に根ざし愛に基づいた生活は、几帳面な、計算された、コントロールされうる規律や戒律ではなく、人知を超越したキリストの愛を感じ、体験し、満たされることに繋がるのだ。
そして、それは神の栄光がこの地であらわされることでもある。
新約聖書は、主なる神を愛し、自分を愛し、隣人を愛し、敵をも愛し、また特にイエスを信じる者同士が互いに愛しあうことを繰り返し奨励している。
その愛は、キリストのあの十字架の愛の実なのだ。イエス様を、十字架を無にしないで、その愛を結実させるために、パウロは強力な執り成しの祈りをしたためてくれたのだろう。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、 怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(第一コリント 13:4-7)。と、聖書に書いてある。自分をコントロールして、どうしても自力では愛の域にたどり着けない時に、パウロのこの愛に根ざした愛に基づいた生活への執り成しの祈りを静かに祈るのは、良いことのように思える。
エペソ人への手紙 3:14-21 JA1955こういうわけで、
わたしはひざをかがめて、
天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。
どうか父が、
その栄光の富にしたがい、
御霊により、
力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、
また、
信仰によって、
キリストがあなたがたの心のうちに住み、
あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
すべての聖徒と共に、
その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、
神に満ちているもののすべてをもって、
あなたがたが満たされるように、
と祈る。
どうか、
わたしたちのうちに働く力によって、
わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、
はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
教会により、
また、キリスト・イエスによって、
栄光が世々限りなくあるように、アァメン。