2014年05月30日(Fri)
■ 暗号のようですが、ニュアンスはわかりました。
先日、こどもがアリの観察をしました。
学校から帰ってくると、小分け袋に砂糖と塩をそれぞれ入れて、友達とアリの観察してくる!と家を飛び出して行きました。
そして、数日経って、一枚のプリントを手にわたしの前にきて、「アリがなぜ行列するのかを説明します」と、そのプリントを読みました。
プリントと言っても、課題の「アリがなぜ行列するのか」に対する、観察の結果をこどもが手書きで書いている、それを読んだのです。
正直に言うと、暗号のようでした。でも、ニュアンスは伝わりました。こどもが一生懸命、アリを観察して、何かをわかったという喜びは伝わりました。(本当は何がわかったのかを整然と話してくれるといいのですが、大人だって難しいことです…)。
それで、ふっ、と、気がついたのは、人が何かを理解しつつある過程というのは、他人から見ると暗号のようなのですね。
いま、わたしは例えばtwitterやブログでいろいろな人の話を読む。中には「なんでこの人はこんなことを言うのかな?」と、理解できないこともある。たくさんある。
もっと言うと、わたしはクリスチャンなので、教会の礼拝で説教を聞く。いろんな牧師の説教を聞いてきました。すべてがわかったわけではなく、なにを言ってるのかわからない説教もある。
それは、わたしの知識が足りないとかそういうためなのかな?と、思って情報を集めたり、観察したり、勉強したりしたのですが、そうではなくて、相手も理解の途中にあって、でも、何か表現しなくてはならない。そんな時に、何か、暗号めいてしまうのは、致し方ないのかなと、理解しました。
だから、この前、結城浩さんが、相手の言うことを遮らないで聞くというノートを公開されてましたが、暗号めいている部分をいったん、遮らないでそのまま聞いて、後から指摘するのは大事なことだなぁ、と、思うに至りました。