2012年11月05日(Mon)
■ 『空白の5マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』角幡唯介 著
角幡唯介さんは1976年生まれ、早稲田大学探検部のOBだ。地球上に遺された人類未踏の地は希少で、ツアンポー峡谷はそのひとつだった。角幡さんは在学中にツアンポー峡谷を探検に行くことを企画した。
そして、2002〜3年ツアンポー峡谷の未踏領域を単独探検、2008年のチベット動乱後、2009年再度ツアンポー峡谷に無許可単独で入り、寒波など厳しい状況の中、脱出した。その顛末を本書にまとめている。単なる顛末記に終わらず、本書の前半はツアンポー峡谷に挑んだ人々の変遷も丁寧に紐解いていて読み応えがあった。2010年、第八回開高健ノンフィクション賞を受賞している。
ツアンポー峡谷という聞き慣れない地名は、チベット高原の水脈が集まり、壮大な流量の川となり流れる地だ。グランドキャニオンをはるかにしのぐ規模らしい。チベット人も訪れないその秘境は、その昔、英国の探検隊が活躍していた時代に、最後まで全貌を見せず、1990,2000年代の冒険家たちが目指すにはうってつけの場所だった。
峡谷は密林や滝、絶壁など、困難な道なき道を越え、初めて到達できる。そして、その道中に潜んでいるヒル、ダニ、イラクサ、生息する植生や虫たちは、不快感を極める。ピークハント登山とは別種のルートファインディング的要素の強い山行を強いられる。
また、2002年には賄賂で進めたラサからの道も、2008年の動乱の影響で中国国内からラサへ至る経路は外国人を拒絶し、無事ついてもラサでの検問、また行く先々の村でも中国当局の影響に、おそれをなしているチベット人は協力を拒むといった障害が発生した。特に驚異だったのは携帯電話だという。
わたしはこれまで、チベットをゆく日本人の紀行を二冊読んでいる。ひとつは1995年の渡辺一枝さんの『チベットを馬でゆく』、これは、渡辺一枝さんがチベット人のガイドやコックを雇って、馬やジープを使ってチベット国内をぐるっとまわる話だった。日本との通信手段は手紙が主で、それも役所の機嫌次第で届かないものもあったという。
次に読んだのは『梅里雪山』で1991年の雪崩遭難のあと遭難者の遺体捜索のため10年間同地に通われた小林尚久さんの話だ。話の最後の方で、現地チベット人と携帯電話でやりとりしていた場面があったが、日本で応答したものだった。チベットという秘境だった場所と日本が携帯電話でP2Pで繋がれてしまうことには新鮮な驚きを得た。
どちらも2008年のチベット動乱の前で、多少の中国との緊張はあるが、それでも、牧歌的なチベットの風景が描かれていた。『空白の5マイル』は、ちょうどチベット動乱直前直後に二回、チベット内を踏み行った話としても興味深い。
2009年のツアンポー峡谷行きでは、角幡さんの場合、無許可で探検をしようとしていたのでなおさらだけれど、現地チベット人が携帯を持っていることが、通報の驚異だった。2002年にはチベット人にまったく問われなかった許可証の有無を、2009年には必ず問われ、チベット人たちは許可証の無い人間に関わったことが中国当局にわかれば投獄されるという危機感が強いことがうかがえた。チベットは動乱もだけれど、携帯電話というテクノロジーで、大きく変わってしまったことがわかった。
探検は人間文明が届かない地を分け入る要素が強いけれど、角幡さんの踏破した空白の5マイルを最後に、地球からは本当の未踏の地は失われてしまった気がして、読み終えたあと、達成感とも違う複雑な感触が残された。
これからの時代の探検や冒険について、角幡さんがたどり着いた結論は、一読の価値がある。
■ 『ミニヤコンカ奇跡の生還』松田宏也 著
標高7556mのミニヤコンカは、チベット高原東南を走る横断山脈の最高峰だ。チベット高原と四川省、雲南省、ミャンマーの境界となる横断山脈は多くの山脈から連なり、ミニヤコンカは横断山脈の大雪山脈にある。また、横断山脈にある怒山山脈には梅里雪山(カワカブ)がある。ちなみにツアンポー峡谷はヒマラヤ山脈の山系に属し、この横断山脈ではない。
Wikipediaによればミニヤコンカは1932年にアメリカ隊が初登頂したあと、1980年まで山域周辺は外国人立ち入り禁止だったが解除され、翌1981年、初登頂を目指した日本隊が8名山頂付近で4000mの滑落死という悲劇をおこしている。そのエピソードは本書でも一部明らかにされているが、『生と死のミニャ・コンガ』にあるという(未読)。それ以降も登頂成功者は20名に満たない難峰だそうだ。
『ミニヤコンカ奇跡の生還』は1982年、市川市登山会が6名の隊員でミニヤコンカを登山したが、最終的に著者の松田宏也さんと菅原信さんの二人がアタック隊として山頂を目指した。この話は、C5のテントを出発したあたりから始まる。
ミニヤコンカの難しさはいくつかあるが、ひとつは山頂付近の見晴らしの悪さ、何度も偽ピークが現れ、登山者の気をそぐ。また、めまぐるしく変わる天候。そして硬い氷と岩と雪。
松田・菅原ペアは山頂付近までは快晴に恵まれ、登攀できたが、山頂直下で時間と天候急変に追われることになる。そこからが暗転のはじまりだった。あと1時間という距離で山頂だったが二人は登頂をあきらめ撤退に入る。あきらめるまでの心理も詳細につづられている。しかし、そこからの撤退戦がすさまじいの一言に尽きる。
無線機の故障、食料不足、ビバークにつぐビバーク、吹雪、暴風、クレバス、乾き、ありとあらゆる困難が二人を襲い、C2でついに二人は別れてしまう。さらに下山を進める松田さんは幻視、幻聴にも襲われる。その間もパートナーを置いてきてしまった痛恨の念は筆舌しがたい。命からがらたどり着いたBCも、頼みにしていた仲間は二人の生存をあきらめて下山した後だった…。後二日、待っていればというタイミングだった。
その後、奇跡的に救出されたが、松田さんは63kgの体重が32kgまで落ち、重度の凍傷を負い、両手の指を切断、両足も膝下まで切断という結果になった。だが、松田さんはその後、義足をつけ、丹沢をベースに訓練を重ね、小西政継さんの隊でシシャパンマに挑み、今はスキーなども楽しまれているそうだ。
『ミニヤコンカ奇跡の生還』は、まるで小説を読んでいるような山行記で、松田さんの文学的な表現が登山の豊かさを饒舌に語る。あとがきでは「生きることはすばらしい」と、そして、希望を背負い直す決心をされている。それは安易な決心ではない。山男はどこまで強いのかと、深く感嘆した。