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shinoのときどき日記


2010年09月22日(Wed)

「あ、ジョバンニ」

と、須賀敦子が思ったかどうか、知らない。

けれど、須賀敦子が初めてイタリアに留学した土地、ペルージャは、アッシジのフランチェスコに縁の深い土地で、フランシスコの洗礼名はジョバンニだったそうだ。1983年に書かれた「宗教詩ラウデの発展について」*1で、「さらに彼自身、洗礼名がジョヴァンニであったにもかかわらず、彼の誕生のときにフランスに旅行中だった父親が、帰国後にその名をフランチェスコに改めさせたという伝承など、彼の身辺にはフランスにかかわる逸話が多い。」とあり、イタリア風のジョヴァンニという名前だったのに、それが変えられてしまったのは、残念であるという風にも読める。

フランチェスコの名前がジョヴァンニであることを発見した時、「あ、ここにもジョバンニが居る…居た!」と思ったかどうか、わからないけれど、ジョバンニ、と、いうと、おそらく須賀敦子がその名前を初めて触れたのは、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』の、あの主人公のジョバンニだったのではないかと思う。

『銀河鉄道の夜』でほんとうの神様を求め続けたジョバンニと、フランチェスコと改名されたアッシジのジョヴァンニを、安易に重ね合わせることは、よくないことだし、須賀敦子がそのふたつを重ね合わせて考えたかはわからないけれども、須賀敦子が文学の中でもとりわけ詩を愛したその背景には、宮澤賢治の影響があり、そして宮澤賢治の童話も深く須賀敦子に影響を与えているのではないかと思う。

須賀敦子はイタリアで『どんぐりのたわごと』という冊子を自分で作り、そして日本に送ったいた。その7号(1960年12月)の「こうちゃん」という童話は、野山のなかをそっと駆け巡り、気がついたらそばにいて、ここにいるのかどこにいるのかわからない、少年とも少女ともわからないこどもを描いているのだけれど、その存在は、あまりにも『風の又三郎』のようだし、その次号(1961年1月)に書いて送った「希望をうえて幸福を育てた男」(ジャン・ジオノ著)の翻訳のあとがきには、宮沢賢治の虔十公園林をイタリアの友人に話したら、その話によく似た話だと原文を渡されたものである、と、書かれている。 イタリアに居るあいだも、景色を眺め、人と話し、本を読みしている折々に、「あ、ジョバンニ」「あ、賢治」と、たびたび、思い巡らしていたのは、間違いないのではないか。

『銀河鉄道の夜』のジョバンニといえば、思い出されるのは次の会話だ。

「もうぢきサウザンクロスです。おりる支度をして下さい。」青年がみんなに云ひました。

「僕も少し汽車へ乗ってるんだよ。」男の子が云ひました。カムパネルラのとなりの女の子はそはそは立って支度をはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないやうなやうすでした。

「こゝでおりなけぁいけないのです。」青年はきちっと口を結んで男の子をみおろしながら云ひました。

「厭だい。僕もう少し汽車へ乗って行くんだい。」

 ジョバンニがこらへ兼ねて云ひました。

「僕たちと一緒に乗って行かう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。」

「だけどあたしたちもうこゝで降りなけぁいけないのよ。こゝ天上へ行くところなんだから。」

女の子がさびしさうに云ひました。

「天上へなんか行かなくたっていゝじゃないか。ぼくたちこゝで天上よりももっといゝとこをこさへなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」

「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ」

「そんな神さまうその神さまだい。」

「あなたの神さまうその神さまよ。」

「さうぢゃないよ。」

「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑ひながら云ひました。

「ぼくほんたうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんたうのたった一人の神さまです。」

「ほんたうの神さまはもちろんたった一人です。」

「あゝ、そんなんでなしにたったひとりのほんたうのほんたうの神さまです。」

「だからさうぢゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんたうの神さまの前にわたくしたちとお会ひになることを祈ります。」青年はつゝましく両手を組みました。女の子もちゃうどその通りにしました。みんなほんたうに別れが惜しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出さうとしました。

少し長い引用になってしまったけれど。

この場面は、クリスチャンの青年と二人の少年少女が、ジョバンニとカムパネルラと乗り合わせた、銀河鉄道の中での別れの場面です。

ジョバンニにとってはいくつもの自分を裂かれるような会話が連なっている。

ひとつは単純に、一緒に旅を続けたいと思うような人たちが、ここが自分たちの降りる地点だと、別れを告げられること。

もうひとつは、ジョバンニはこの世界に天上のような世界を作ることこそが大事だと思っているのに、青年達はこの世界に天上を一緒に作り上げることを放棄して、先にすでにある天上に入ってしまうこと。ジョバンニの考え方は、須賀敦子の信仰の姿勢にもよく似ている。須賀敦子は、教会の外にこそキリストの愛がたくさんあると信じ、イタリアでは左翼活動をするコミュニティに出入りしていた。、

最後のひとつは、互いにほんとうの一つの神さまを求めているのに、ジョバンニには、青年の示す神さまがどうしても理解できない、自分に関係があると思えない。でも、互いに、「ほんたうの神さま」を信じる思いは、深く深くあるのに、どうしても共有しきれない、つらさ。こうした宗教観、正しく云うと、宗教を信じるがゆえに、どうしても、共有しきれない、価値、それが人と交わる時に、刃となって自分と相手の間の何かを深く切り裂くようなことは、信仰を持つ人ならば(持たない人でも)、経験するつらさだろう。

そして、須賀敦子は、さまざまな土地で、人と交わりあいながら、やはり、そのような思いをたくさんし、それを乗り越えて、キリスト者としての自分を、決して手放さなかった人なのだと思う。また逆に、そんな繊細な人の信じる心を知っていたから、彼女の文章は、「静謐な」と形容されるほどに抑制の効いた文章になっていったのではないかとも思う。

『須賀敦子 静かなる魂の旅』というDVDと冊子のセットになったものを、先日、わたしは手に入れた。おそらく、須賀敦子の死後12年目のメモリアルなものだと思う。中に、「須賀さんとの思い出」という須賀敦子の愛弟子であったという、イタリア人男性のジョルジョ・アミトラーノ氏がエッセイを寄稿している。

そのなかで、アミトラーノ氏は、病床にある須賀敦子の見舞いに行く途中、花屋で花を買おうとして、こんなことをした。

花屋さんは、「どのようなプレゼントですか、お見舞いですか」と聞きます。お見舞いでしたが花屋さんが何か悲しそうな花をつくったら困ると思い、「いや、お見舞いではありません」と言いました。(中略)

 私はそのとき初めて、須賀さんのことは誰にも説明できないと悟りました。(中略)

 だから私はその花屋さんに「いや、そんなことは忘れて、素晴らしい人のためにいちばん素晴らしい花をアレンジしてください」と言いたかったのですが、そんなことは言えず、「何かちょっときれいにしてください」とだけ伝えました。

アミトラーノ氏の、花屋の店員に須賀敦子の存在を説明しようとして伝えられない、そして素晴らしいことを伝えられない思いは、まるでジョバンニの「ぼくほんたうはよく知りません、けれどもそんなんでなしにほんたうのたった一人の神さまです。」という気持ちによく似ているようではないか。

そして、ジョバンニは親友のカムパネルラを失うという最後だけれど、アミトラーノ氏も死の病床にある須賀敦子を失う覚悟をしつつ、けれども、そこに、天上でまた会えるという須賀敦子の抱く信仰の希望があるがゆえに、ただただ、すばらしい人のために、すばらしい花を贈りたいという上昇的な思いを描いたと思う。でも、この文章が出てくるまでには、12年もの歳月がかかっているということも同時に思う。

*1 p.85 須賀敦子『須賀敦子全集 第6巻』


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