2015年09月12日(Sat)
■ 信仰が深まる?
信仰が深まるってどういうことだろう。
ある牧師は説教で、「信仰が深まると人が周囲から去っていく」って言ってたけど、なんか違うなって思った。
聖書の、特に、プロテスタントは信仰義認という考え方があって、ただイエス・キリストを信じれば神の目からは義なんだという考え方がある。というか、聖書に書いてある。
一方で、信仰は行いが伴わなければ嘘だとも書いてある。
そして、その行いは、新約聖書では神を愛し、人を愛するということだ。
神様の愛につながって、隣人愛を実行していれば、それはなにも隣人に信仰を強要することではなく、相手を考えて、働くことだろう。
聖書に書いてある愛の定義はこうだ。
「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 愛はいつまでも絶えることがない。」 コリント人への第一の手紙 13:4-8 JA1955 http://bible.us/81/1co.13.4-8.ja1955
信仰が深まるって、先日の中村佐知さんの『心の刷新を求めて』講演会の中で、クリスチャンの目標は「神を愛し、人を愛する」だと語られていたけれど、上記のすべてを完璧に実行するのは難しいとしても、少しずつそれができるように自分の行いを集中させてゆくことだと思う。
もし、人に対して、寛容で、情深くて、相手の良いところを信じて、喜んで、希望を持ったとしたら、(相手の悪いとこは耐えたり、忍ぶとか…ようするに目をつぶるってことだと思うけどどうだろう?)、きっと全てとは言わないけれど、多くの人と良い関係が築けるように思う。
信仰が深まると、人が離れていくんじゃなくて、人とうまくやっていけるようになると思うんだけれどなぁ。(もちろん、中には離れていく人もいるだろうけれど)。
そういえば、霊的状態のチェックの問診、カスタマイズして作ってみればよいと言われていたけれど、こういう問いを自分にすることもできるかもしれない。
「わたしはこのごろ、以前より寛容だろうか?あまり寛容になっていないだろうか?」
「わたしはこのごろ、以前より情け深いだろうか?あまり情け深くないだろういか?」
「わたしはこのごろ、以前より妬み深いだろうか?あまり妬んだりしていないだろうか?」
「わたしはこのごろ、以前より高ぶってはいないだろうか?あまり高ぶらなくなっただろうか?」
「わたしはこのごろ、以前より誇ってはないだろうか?あまり誇らなくなっただろうか」
……
「わたしはこのごろ、イエスさまのために、あのことやこのことを手放せただろうか?それとも自分のために握りしめているものがあるだろうか?」
「わたしはこのごろ、握りしめているのは、十字架と復活の福音だけというシンプルな生き方になっているだろうか?あまりに多くの雑多なことを抱え込みすぎてはいないだろうか?」
冒頭、信仰が深まると人が離れていくというのは、でも、わからなくもない部分ってある。それは、高橋たか子も書いていたりするのだけれど、神という存在の認知の仕方が、人によって千差万別なのだ。これは、汎神論ではなくて、神様は完全な唯一のお方だけれど、人間側が欠損だらけの土の器なので、人ごとに認知の仕方がさまざまにあるということ。
そして、わたしのイエスさま、あなたのイエスさま、どういう出会い方をしたのかこれまた人それぞれだから、どんなに共有しあおうとしても、共有しきれないところがあって、その部分で、信仰者たちはみんなそれぞれに孤独なのだと思う。けど、その孤独の部分で、イエスさまからの愛を受け止めるのだから、これまた不思議な神様の恵みだ。