2014年05月09日(Fri)
■ なぜ、賢治ではなく、イエスを信じるか。
ふと、昨日、懐かしい宮沢賢治を手にとってみました。それはわたしが中学生の頃に、両親の知り合いのクリスチャンであるカナダ人夫婦が、帰国の折に、わたしにプレゼントしてくれた『宮沢賢治 イーハトーブの光と影』という本です。
その本のP.92に、賢治の絶筆(亡くなる前、最期に記したもの)が掲載されていました。
方十里稗貫のみかも
稲熟れてみ祭三日
そらはれわたる
病(いたつき)のゆゑにくもらん
いのちなり
みのりに棄てば
うれしからまし
[『宮沢賢治 イーハトーブの光と影』より引用]
病のために死にゆくいのちだけれども、多くの稔のために棄てるならば、これほどうれしいことはない。
これは、聖書を読む人ならば、一粒の麦を思い起こすのではないかと思います。
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
[ ヨハネによる福音書 12:24 JA1955より引用]
一粒の麦が地に落ちて死ねば、豊かに実を結ぶようになる。
これは、イエスが十字架の前日に弟子たちに伝えた言葉です。十字架、すなわち、イエスの死の直前です。
教訓ではなく、事実、死ぬ前の言葉です。
その後に、イエスはどのように言葉を続けたか。
今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。 父よ、み名があがめられますように
[ヨハネによる福音書 12:27, 28 JA1955より引用]
あれだけ、弟子たちを心騒がせるな、信じなさいと言っていたイエスが、死を前にして自分の心が騒ぎ、自分が何を言ったら良いのかと惑い、そして、父なる神に救いを求めているのですね。
一昨年だったか。わたしの無宗教の友達が、倒れ、救急搬送され、呼吸停止しそうになったので、喉を切開し空気を肺に入れるチューブを装着し、何日もICUで生死をさまよいました。
その後、友達は回復されたそうで、一通のメールをくれたのですが、短く「あのね、人は死にそうになると、祈るんだよ。神様、助けてって。わたしもそうだった」と、記してありました。
死を前にしたら、神様、助けてくださいと、ふつうは祈るように思います。それは、弱さではなくて、そうだからです。
わたしも将来、必ず向かえるこの世の死を前にして、賢治のように「うれしからまし」と立派に言えるかというと、無理な気がするのです。そんな自信が自分にはまったくない。ぜんぜんない。むしろ、イエスのように、友人のように、「神様、助けてください」と祈るように思います。
そうだから、賢治ではなく、イエスがわたしにとって、キリスト(救い主)であって信仰の対象なのです。