2014年04月02日(Wed)
■ 『ことばは光 1,2』太田道子著
先日、この日記で紹介したイスラエル紀行のブログを読んでて、ふと、高橋たか子が思い浮かび、調べていたら、太田道子という名前が入ってきた。
観想修道会という種類の修道会がカトリックにはあるそうで、黙想が自分を神様へ向けて祈る祈りならば、観想はその逆で神様から入ってくるものを受けとめる祈りだそうだ。(最近はプロテスタントのごく一部にも入ってきているようだけれど、わたしの周囲ではあまり聞いたことがない)。
どちらも、沈黙しているので、傍目にはそれが黙想なのか、観想なのかは区別つかないかもしれない。
観想修道会は、高橋たか子の場合はフランスで都会の中で成すタイプのものから砂漠へと出て行ったのが、『亡命者』という小説。それと比肩するかのように太田道子が紹介されているブログがあり、興味を持って、『ことばは光』を手にとってみた。
太田道子は、聖書学者で新共同訳聖書の編纂にも携わっているらしい。また、パレスチナ難民支援のNGO活動をし、イスラエルのナザレにも拠点を持ち、日本と往復している。
その活動は、ひたすらに個の祈りの中で神との出会いを求めていった高橋たか子とは真逆。
なのに、『ことばは光』の冒頭は、『亡命者』と一対であるかのようなのだ。
アルジェリアの砂漠にはフランス系列の観想修道会があり、そんなところでの二年にわたる太田道子の滞在。それは光に溢れていて、そんなところから始まる。(アルジェリアの情勢が悪くなり、そんな修道会の修道女などが殺されてしまったとあっさりと触れられている)。
けれど、イスラエル・パレスチナと日本を往復しながら、日本の支援者に尋ねられるたびに状況は良くないと報告する悲しさ。また日本の国際社会や人道支援に対する無力、無理解に歯ぎしりをするかのような忸怩たる思い。
また、どっぷりと旧約聖書の研究にはまっていた生活の回想。
なにか、カトリック的な直接的に対象に触れないような慎重さで話は進む。
それが一転。二巻では冒頭に、20代の若い頃にキング牧師に出会い、聖書を読んでるのでは聖書はわからない、ついておいでと言われ、キング牧師がどんな経歴、立場の人かもわからぬまま、アメリカの季節労働者の支援活動をしたところに話がゆく。
驚いた。
そこからはプロテスタント的な明瞭さで、いったい、何がパレスチナ難民支援活動に自分を向かわせたのかということが記されたりなどしている。
そして、たくさんの聖書の知識や信仰があるだろうけれど、人間イエスに焦点を絞り、その生涯と信仰を単純に説いている。
わたしはこの本を図書館で借りたのだけど、特に二巻を手元に置きたいと思い、キリスト教書店、古書店に問い合わせたものの、絶版で今は入手が難しいようだ。2006年に刊行された本だけれど、2011年を経た今だからこそ、もっと読まれて良いと思うのに。
なので、目次だけ、ここに写しておく。
太田道子 『ことばは光 2』
目次
- Ⅰ ごまめの歯ぎしりと夢 連想-想い出-出会いによるエッセイ
- 1 出会い
- 1 二つの出会い
- 2 T村の人々
- 2 「地に平和」の生活から
- はじめに
- 二000年夏 東京本部事務局
- 二00五年秋 ナザレ
- 二00六年夏 東京本部事務局
- 二00六年秋、エルサレム
- Ⅱ 難民に出会う
- はじめに
- 難民キャンプで出会ったクリスマス
- 禁足令のベツレヘム
- Ⅲ イエスを迎える
- はじめに
- 1 イエスの時代 イエスの起こした運動 イエスの場 「罪人」とは誰のことか
- 2 イエスの到来 「時は満ち……」 告知 ヨセフへの告知 マリアの賛歌 羊飼いへの告知 シメオンの賛歌
- 3 イエスの活動開始 避けるべきこと 荒れ野での試み (1)石をパンに変える (2)神を試すこと (3)神以外のものを崇める / 使命の確認 イエスの自己紹介 / するべきこと 主の祈り はじめに (1)日毎のパン (2)負債の免除
- あとがき
- 1 出会い
そして、この日記を書いていて、いま、気づいたのだけれど、この本は直線的な時系列の本ではなく、観想の祈りから始まって、受けとめたのが「主の祈り」というのが、なるほどなぁ、と、思った。
観想の祈りは神様から受けとめる祈りで、そして「主の祈り」は弟子たちがイエスに、祈り方を請うて教えてもらった祈りだ。