2014年03月28日(Fri)
■ 歌う修道女を前にしたNoemi姐さん
相変わらず、イタリア語、わかりませんが、Noemi視点を妄想して、No one歌うシスター動画とNoemiのお勧め動画を記しておきます。
Noemiはシスターが歌い出した歌声に、なんじゃこりゃって、ほんといち早く反応して、J-Axに続いて間髪置かずに振り向くくらい。感性鋭いですね。
二人とも
"You and me together
Through the days and nights"
というところで、反応したんですよね。
No Oneの原曲には、恋を百戦錬磨こなしてきたような女性が、求めてた愛は男女の愛じゃなくて、神の愛だったのよねぇって、少し哀愁のこもった響きがあるのですが、シスターはその哀愁がすこーんと抜けてて、まっすぐに神様のとこにいっちゃってる。
(ちなみに、J-Axがピエロとカッラに強力にプッシュしたのは、二人とも年寄りですので、原曲の哀愁の方に価値を置いて、あまりにもすこーんと抜けてまっすぐすぎるシスターに気づけない可能性が高かったので、あのとりなしはすごいなぁって思います)。
聖書には昼も夜もというのはあちこちに出てきますが、あの動画は詩篇1:1-6をベースにすると読みやすいですね。
まず詩篇1:1-3はシスターの歌ったNo Oneだし、シスター自身。
1幸いなことよ。
悪者のはかりごとに歩まず、
罪人の道に立たず、
あざける者の座に着かなかった、その人。
2
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、
昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
3
その人は、
水路のそばに植わった木のようだ。
時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
その人は、何をしても栄える。
[新改訳聖書より引用]
そして、続いて詩篇1:4-6はこうなります。J-Axはこちら側の世界を歌うことで、そこから求めてる人ですね。
4
悪者は、それとは違い、
まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。
5
それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、
罪人は、正しい者のつどいに立てない。
6
まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。
しかし、悪者の道は滅びうせる。
[新改訳聖書より引用]
YouTubeのPC版で翻訳みたらNoemiはそこに見事な選曲って言ってますし、day and nightのところを褒めてます。そしてJ-Axに続いて振り向いたタイミングも見事。
(カッラは最後にJ-Axに「この悪魔!」って言ってますが、歌を越えてあの場面を作品として仕上げてしまったクリエイターの業の指摘みたいなものでしょうねぇ。クリエイターとして褒め言葉になってしまっている。ほんと業の深い人たち 笑)。
そんな感性の持ち主のNoemiは、シスターが歌ってる時に、舌を出したりしてましたが、あれは、女神様ごっこやってたら、ホンモノがきてしまったー!というような、イタズラっ子がイタズラ見つかって笑ってるような感じでしょうね。か、かわいい。
でも、Noemiも女性のままならなさをうまーく歌う人で、イタリア語の歌詞はあいかわらずわかりませんが、このPVはすばらしかった。父の愛をたくさん与えられてる幼子のようであれば和解は簡単だけど、"女"になると競いあったりしてうまくいかないのよねぇ、人間って愛から離れるとほんとダメだわー、みたいなPV。(歌詞わからないからちょっと違うかもしれないけど)。
イタリア語わかりませんので、すべてわたしの妄想かもしれません。日記でした。
■ 今日のあれこれ
ここのところぶっ飛んでますが、日常的な日記でもひとつ。
こどもが花粉症的な目のかゆみを訴えてきたので、眼科行って、買い物してきました。
わたしは花粉症ではないので、知らなかったのですが、薬局で花粉症はどんなお医者さんで見てもらうといいんですかと尋ねたら、ちゃんとしたアレルギー検査なら大学病院になるけど、花粉症なら耳鼻科ですねと教えてもらいました。なるほどー。今回もらった薬が切れたら耳鼻科行こうと思います。
じつは、こうしたちょっとした疑問を人に尋ねるのが、わたしはものすごく苦手な人でした。なので、インターネットの検索にすべて尋ねる習慣を身につけてたのですが、最近、そうでなくても良いかなって気持ちになってきたのですね。なぜならわたしがわたしの得意な分野を人に尋ねられるのは好きだからです。
で、その後、消費税増税前の小さな行動で、調味料の大入りのを何種類か買って、こどもが春用の薄手のカーディガンが欲しいというので洋服屋さんに行って、お昼用のお弁当買って帰宅しました。
外はすっかり春で、桜もほころび始めて、来週あたりはお花見かなと思いながら帰宅しました。
■ トルコ、シリア方面のメモ
■ 恵み*2
すこし十字架を復習してたところで ペテロがつまずいたところが出てきて つまずくってそういえばマルコ4:16-17にも出てきたなぁと振り返り これはペテロのことだとわかりました。
聖書におけるつまずきって信仰を無くすということだけれど、自分が自分の力で持っていたと思っていた信仰が打ち砕かれて、無力になって復活の主に会い "主こそわが神"ですと 本当に神様が与えてくれる信仰に立つ 聖化のプロセスなんですね。
たったひとつのみ言葉で始まったからし種ほどの信仰が、鳥を休ませるほどの信仰に育つプロセスに含まれるのだな、とも。 ペテロはつまずいたのに主に用いられて教会の始まりになったというのはそういうこと。
聖書、深いですね!