2010年10月12日(Tue)
■ ウェブ日記に何を書くべきか/書かないべきか、について考えつつ、書いている。
ここはロバの耳ではなくて、道路なのだ。公道なのだ。 その端でおしゃべりをしているような場所なのだ。 そのような場所で書くにふさわしいことって何だろう。
最近、心と思いの関係について学んだ。
きっかけは、マタイ22:27 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」という聖書だった。
心、精神、思いの違いがよくわからなくて、英語の聖書を見たら、そこにはこう書いてあった。
Jesus replied:"Love the Lord your God with all heart adn with all your soul and with your mind."
- 心=heart
- 精神(魂)=soul
- 思い=mind
soulは、精神よりも魂のほうが、わたしにはわかりやすいので、魂として受け取る。
また、これは、旧約聖書でも見られるパターンで、ただし、旧約だと、構成しているものが新約と少し異なる。旧約だと、「心を尽くし、魂を尽くし、力(強さ)を尽くして」になる。
Hear, O Israel: The LORD our God, the LORD is one. Love the LORD your God with all your heart and with all your soul and with all your strength.
ここからわかることは、旧約では、heart,soul,strength、つまり、「心と魂と"力(強さ)"」だったのが、新約ではイエスがこれを「心と魂と"思い"」と書き換えしているのだ。
この場合の書き換えは、けれど、勝手にしているのとは少し違う。ちゃんと新約(新しい約束/新約聖書)の原則があって、それに基づいて、書き換わっているのだと思う。つまり、適用なのだ。
また、「心」が自分の外界を感知する機能ならば、「思い」は自分の内面を外界にアウトプットする機能なのではないかと、気づいた。
「思い」がアウトプットするものならば、それを表出する人間に備わった器官は唇(言葉)だろう。
「思い」という言葉は、「思想」という言葉に通じる。思想は言葉によってあらわされる。言葉なくして思想はありえない。というような話をここのところ、立て続けに、何人かそれぞれ別方面の人たちから聞いたり読んだりした。言葉、書くことに強い人にとっては、「思い」は言葉であらわされるのかもしれない。
自分から表れるもの、言葉、行動、歌、絵や創作物は、「思い」なのだろう。
ここで、わたしは、日記に書くもの、について、再びふりかえる。
今までは、わたしは、外界から感知した「心」を日記に書こうとしていた。 でも、そうではなくて、心や魂を通過して、自分から表に出していく日記は、「思い」なのだろう。 読むという行為は心に入るものだけれど、書くという行為は思いから発するもの。 わたしは、「思い」を整えていかなくてはならないのではないか。