2009年12月02日(Wed)
■ ぼくたちが聖書について知りたかったこと: 池澤 夏樹: 本
「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」は2009年11月に小学館から発刊された、池澤夏樹による、新共同訳の訳者のひとり聖公会の聖書学者秋吉輝雄氏との対話集である。
本書は、信仰書というよりも、知識としてのキリスト教の本だ。池澤氏はここ数年をフランスで過ごし、人が生きる現場においてキリスト教が機能する場面を何度もみたと言い、思想においてもシモーヌ・ヴェイユや須賀敦子を無視しして世界観を構築することはできないと言う。(シモーヌ・ヴェイユも須賀敦子もカソリックの信徒である)。
また、歴史において、キリスト教の前にユダヤ教があり、そののちにイスラム教があり、ユダヤ人のいない世界史はあり得ないと断言し、文化においてユダヤ人のはかりえない影響を与え、イスラエルなき現代史は意味を成さないとまで言っている。
それらの源泉は何か、というと、聖書である。本書は、旧約と新約、これらについて一定の知識を得て、はじめて世界の正しい姿が見えるだろうという仮定のもとにはじめられた、思想家と聖書学者の対話である。
確かに本書を通じて、得られた知識は良いものもあったが、しかし、「旧約と新約、神と人の間の契約」というものについての踏み込み方は、まだ至っていない、と、わたしには思われた。それは、やはり、神と人の間の契約の意味が信仰にたって初めて意味を成すものだからだろうか?
いや、そうではない。本書で、秋吉氏は旧約聖書やイエス・キリストの系図について説明を成しているのだが、その説明が不足しているし、偏っている。この説明ではわからないだろう!と読みつつ、何度か心の中で声をあげてしまった。
特に異議申し立てをしたいのは、ダビデ偏重で、アブラハムからイエス・キリストの系図が始まっている、その意味の説明の浅さだ。本書を読むと、まるで、数秘術において14という数字が重要だったために、ダビデとイエスをつなぐ数あわせとして、マタイによる福音書のはじめに、キリストの系図がでてくるのだが、アブラハムからはじまったのは14の数あわせのために、そこにぽんと置かれたかのように読めてしまう。それでは、まったく、だめだ。
アブラハムからキリストの系図がはじまっているのは、アブラハムが「旧約」なる神との契約を結んだ、最初の人物だからだ。キリストの系図は、神と契約を結びつつも、その契約を、そして律法を、守りきれずに反故してきたか、人間の罪の系譜なのだ。
そしてアブラハムがどういう足跡を残したのか、はじめの一歩はどこから始まっているかを押さえなくては、ユダヤ人の、西洋のルーツを押さえられたとは言えないと思う。(アブラハムはメソポタミア文明の偶像崇拝文化から、召命をうけ、その「脱出」の一歩を踏み出したところから話が始まる。また創世記に続く書が「出エジプト記」でイスラエルの民は「脱出」を試みている。この「脱出」という思想については高橋たか子が詳しい)。
だけれども、一方で、本書から得るものも大きかった。そのひとつが、旧約聖書が書かれたヘブライ語と、新約聖書が書かれたギリシャ語の、本質的な違いだ。今まで、わたしは知識として、旧約聖書はヘブライ語、新約聖書はギリシャ語で書かれたということは知っていたが、文法的にどのような違いがあったかまでは把握していなかった。
つまり、ヘブライ語には過去形がない。ギリシャ語には時制があるという指摘だ。過去形がないとはどういうことか。特に次の指摘は重要だと思った。
秋吉 ところが、過去形のないヘブライ語では、過去に交わされた会話もすべて直接話法で語るのですから、未来志向にはならない。もっと言えば、天地創造というのも過去のことではなく、いまだ終わっていないんです。
聖書は、いまだ終わってない今について、語り続けている。