2009年10月07日(Wed)
■ 続・老子からWikiWayへ
- このテキストは、テキスト・プレイについてを参考に書きました。
2008/10/06 23:28 テキストプレイ 30分一本勝負でテーマを決めてずっと打鍵を続ける「テキストプレイ」というゲームがあることを知る。これをためしてみるというのがこのテキストのテーマのひとつめ。冒頭にスタート時間を押した。最後にもう一度終了時間を入れてみよう。これでひとつ成り立つ。さて、本文のテーマ。夏が終わってからずっと考え続けている「老子からWikiWayへ」というテーマ、八月のWikiばなでは中途半端に終わってしまったのだが、その反省点と今後の展望について考えたい。反省点のひとつめは、老子からみごとにWikiにつながらなかったという点だ。これについてはもうしわけない、あの時点で調査がそこまでしかいかなかったのだ。というしかない。ふたつめは、安易にあれとこれとそれとをつなげようとしたことかもしれない。魂にびびっとくる、エクスタシーを得られるような結論を言えなかったこと。まず、ある人のアドバイスを記しておこう。それは、老子に諸説あることがわかったけれど、そのなかで、自分自身がどの説を採択し深めるかという腹のくくりが足りないということである。確かに。諸説あったどれをわたしが採択し、物語をつくるかというのが確かに腹をくくれなかった。これはと書いたところで早くも電池切れで一回作業を中断してしまった。ごめん。でも続けてみよう。さて、わたしは老子のどの説をとるか。ずばり、「老子は実在する人物ではなかった」説である。そして、次に、史記の中で、老子が周国からやってきた人というのに着目したい。孔子や史記は、いわば黄河文明系の文化である。それに対して、老子の出身地とされるのが長江文明系である。最古の老子として発掘された1970年代、1990年代にでてきた絹でできた書や竹でできた書は、いずれも長江流域で発見されている。このことからも、老子は、孔子や史記が中心とした黄河文明系列のものとは違うことがわかると言えるのではなかろうか。そして、史記の中での老子の歩みであるが、これも、いずくにかきていずくにか去るというパターンである。つまり、異人なのだ。その国の土着の人ではない。つまりさすらい人なのである。こういう事実から鑑みて、老子というのは、やはり、一種の文明と文明が出会った境界の話なのではないかと思うのだ。だからそれがどうwikiと関係するかというと、ネタ的にいうなら、「老子はつまり小人さんである」ということだ。wikiにすんでる小人さんは老子の資質を受けついたものと言えるかもしれない。だが、それだけではつまらない。wikiというひとつの境界をはっきりさせたエリアがあって、そこに人がかかわるパターンは、老子に通じるということもいえるかもしれない。老子のパターンをしっかりみれば、Wiki上でのふるまいのベストプラクティスが学べるかもしれないという示唆を入れておこう。さて、次に、境界問題について考えたい。境界問題というと、はちこさんが翻訳されたいくつかの著書に詳しい。つまり人は境界を持っているということ、それが健全に保たれて、人は健全な人間関係を作り出せるということである。で。wikiだ。wikiはある意味、意図的に境界を破壊している。しかしそこから創造がはじまるのである。wikiと境界問題を論じたものはないだろうか。わたしはまだ、みたことがない。民族学や歴史学では、中沢新一の叔父にあたる網野善彦氏が境界問題については論じていたらしいが、学会やアカデミズムのなかでは評価はかなり分かれているらしい。また、本人も「境界」問題は、何にでも適用できてしまうバズワード認識があったらしく、初期のころには提議したが、のちに、それは引っ込めているようだ。って、ちょっと違ったかな。網野善彦ではなく、心の師匠としている赤坂憲雄のほうだったかもしれない。たしかに、境界・異界・まれびとは、さまざまな分野に適用できやすく、それゆえに、本当の本質を見失いがちになるかもしれない。だが、一回、wikiにおける人間の行動分析を「こびとさん」という観念以外からも考察するのはひとつ挑戦してよい課題だと思う。そして、誰かがそれをまとめた上で、反証、など、議論をすすめるのはおもしろそうに思える。さて、wikiが境界を壊しているというのは何かというと、つまり「編集」機能である。この編集機能ゆえに、通常ひとつのドキュメントはひとりの作者によって書かれるという固定感をなくしてしまった。そこが大革命だと言える。どうしよう。テキストルールにのっとるのがむずかしいぞ。続けて書こうとするけれど、つい、「思考」がするりと入り込み、「そうではないかもな」と手を止めてしまう。ええい、そのような思いはされ。そして、続きを考えろ。つまり「編集」機能は、破壊とともに創造をうみだしているのだ。これは「イノベーション」である。Wikiページのラディカルさは、このイノベーションを機能のほぼ中心においていることだろう。先日、「オープンソースの成功」を読んだが、そのなかで、「イノベーションは、破壊と創造であり、いまのところ、破壊ばかりに目がいって、再生産的な創造に目が及んではないのではないか」という指摘があったようにおもう。wikipediaはどうだ。Wikipediaに編集をした経験は少ないが、それは、ちょっとなかなかしんどいものだった。自分が作った文章が、批判にさらされ、更正されていくのだけれど、正しく自分がなっとくするものならば受け入れられる、けれど、「え?その方向からそう入れる?」という修正や警告が入ったときはもう困った。これはwikiの破壊だろう。しかし、その破壊感を乗り越えて、創造はあるのかもしれない。wikiの創造に至る道は、合意形成にある。合意形成というのは、参加者、関係者みんなが合意を形成し、ひとつの何かを成し遂げたり、つくりあげることだ。wikiの破壊を過ぎ越してはじめて、wikiは創造にたどりつく。この渦中は、わたしのようなやわい人間にはとても耐えられることではない。いや、一定の何かがあるのあもしれない。乗り越えるための、精神的なあり方。それはなんだろう?よくわからないけれど。さて、Wikipediaもそうだけれど、Wikiというのは集合知を促進するツールとして存在するともいわれている。そこに意義が見いだされているのだ。Wikiに関わるのは、ひとりではまとめきれない知をそこに構築することにあると思う。単なる情報の寄せ集めかもしれないけれど、厚め方、Wikiという場づくりには、もっと、何か必要な気がしている。Wikipediaでもよくつまづく、参加者同士のコミュニケーションだ。コミュニケーションをどこでとるか、つまり、合意形成をどうしていくか、というのは、wikiのひとつの課題だろう。そうしたときに、いくつかのやり方はある。たとえばライセンスを明示する、そのWikiの憲章をつくるなど。合意形成は町づくり用語で、ファシリテーションの技術など、いろいろ研究されている。「パターン、Wiki、XP」という本があり、この中では、2つの合意形成テクニックが紹介されている。ひとつは、高速道路を作るときに数学的に集合領域を重ね合わせて最適解を得る方法、もうひとつはパターンランゲージを使う方法が書かれている。これらを体験できるワークショップがあるといいと思ってる。さて、また、話を変えよう。と、いっても、老子からはそんなにづれないはずだ。ネット上の空間は広く、どこでも自由にアクセスできるというのが理想とされているけれど、じつは、本来、人間はそんなに自由にあちこちいけなかった。または漂白という行動を通して、移動を行った。道については白川静がおもしろいイメージを提議している。つまり、道という字は、「異族の首をもって、除霊しながらすすむのだ」「道というのは本来神が往来する道であり、そこを人間が進むのは恐怖であった」という話だ。Wikiという道を進むときに、何をもって進んでいるのだろう?その痛みは、異族の首に該当するものなのだろうか?つまり生け贄とも言える。また、本来、神の領域であったところへの進入している代価は何が支払われているのだろうか。代価というより報酬(むくい的なものとしての)。wikiは簡単だけれど、じつは、難しい。まぁ、いつもの結論にたどりついたところで、意味はなく、終わる。 2008/10/07 00:03