2014年05月06日(Tue)
■ 待ち望む
心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。 (イザヤ書 35:4 JA1955)
彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、 また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。 彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。 (イザヤ書 42:2-4 JA1955)
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。 (ヨハネによる福音書 14:1-4 JA1955)
■ 論じ合うこととか会議とか
主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。 (イザヤ書 1:18 JA1955)
“Come now, let us settle the matter,” says the Lord. “Though your sins are like scarlet, they shall be as white as snow; though they are red as crimson, they shall be like wool. (Isaiah 1:18 NIV)
Come now, and let us reason together, saith the Lord : though your sins be as scarlet, they shall be as white as snow; though they be red like crimson, they shall be as wool. (Isaia1:18 KJV)
たまに、「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。」という、この部分だけ取り出して、「バンザーイ!きよめられた!」とする人がいて、クリスチャン以外には、クリスチャンであっても旧約にあまり親しんでない人は、きょとーんとしたり、その喜びように鳩が豆鉄砲食らったような反応を示すことがあります。
わたしがそうでした。大喜びする人にすごい違和感ありました。で、この聖句はなるべく近寄らないようにしていたのですが、 ふと、改めてよく読んでみたら、その前に条件があるのです。
「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。」
われわれというのは、ここでは神と人ですね。一緒に論じ合おう、話し合おうというのです。
これを聖書を読む人が適用するなら、聖書をよく読んで、聖書に書かれている事柄を神様が自分に語りかけていることとして、読む。
また、クリスチャンならば問題の解決に話し合うという姿勢を持つことが重要な気がします。
また別の言い方をするならば、会議です。会議しようということです。
論じることでも、会議でも、問題に対して異なる意見や立場が出ます。それを一致させようとはここでは書いてありません。異なる意見は異なるままに、異なる立場は異なるままに…かどうかわかりませんが。でも、互いを語らせる、そのことが白くなる秘密だよ、と、言っているのですね。*1
そして、話し合うこと、論じ合うということそのものに従うならば、地の良きものを食べることができるし、もし、その席に着席せず話し合わないなら、滅ぼされるというのです。
先日読んだ旧約聖書学者の太田道子さんの本にユダヤ教の文化が少し紹介されてて、その中で意外に思ったのは、ユダヤ教では会堂で話し合いをした時に、満場一致は何かがおかしいから、一致したとしても必ず異なる意見や反論を促すそうです。
ユダヤ教というと、キリスト教が出てきた宗教で、まだまだ現役、健在な宗教です。その強さの秘密は、この、話し合う、会議文化、そして満場一致を阻止する力にあるのではないでしょうか。
また、キリスト教にもそうした会議における不一致の文化は引き継がれていると思います。
よく、クリスチャンは新約に出てくるイエスの弟子に喩えられますが、イエスも、イエスの弟子たちも、当時は基本的にユダヤ人、ユダヤ教なのですね。
そして、一枚岩のように弟子たちが結束してるか、一致してるかというとそうでもない。
弟子の中からイエスを敵に売り渡すイスカリオテのユダも出てきますし、復活のイエスに弟子たちが会った時にその場に居なかったトマスもいます。
何かそういう、一致の中の不一致を孕んでいる。例えば、トマスは弟子たちの中で突出した意見をよく出しますが、そのことによって他の弟子に責められたとは書かれていません。(ユダヤ人からみて異邦人である文化では、トマスを「疑い深い弟子」と言ったりするようですが、ユダヤ文化から見るともしかすると常識の範囲内の異論表明かもしれないと思います)。
一緒に論じ合うという席に着席することが大事なんだよ(一致じゃなくて)と、この箇所は教えてくれているような気がします。と、思ったので、メモ。
あと、わたしは日本人なのでつい一致を求めて焦ったりするのですが、異なる意見や立場に対しては、「そうなんだ」と話を聞いて流すのも、ひとつのテクニックとしてアリかなー、と、最近、思ってます。(でないと、こどもの喧嘩とか仲裁できない)。
*1 「べてるの家」の 当事者研究って、これだと思うのですよね。