2014年03月01日(Sat)
■ 『その後の不自由―「嵐」のあとを生きる人たち』上岡陽江、大嶋栄子 著
2010年に刊行されたこの本は、女性の薬物依存性回復支援をしていて、本人もかつて依存性者だった著者が、依存性や境界型の女性たちが、回復すると、その後、どんな状態になるのかをわかりやすく記した本です。
最初から夢打ち砕かれる結論としては、依存性や境界型は、アディクション(嗜好)から抜けることはあっても、「治る」ことはなく、なんとなく苦痛のある状態で有り続けるそうです。晴れやかな、ハッピー、ハッピーな状態には決してならない。
けれど、自分の身体を物理的にメンテナンスしたり、人との距離の取り方、生活の仕方を学んでゆくことで、一日、一日を生き延びてゆく。怠くて、しんどいけど、それでも、生きてゆく。生き延びてゆく。そこが、目標なのだそうです。
だから、著者は記します。
「回復とは回復し続けること」。
なるほどなぁ、と、思いました。
少し、本と離れるけれど、前回の日記の続きとして。
教会では未熟な牧師が説教をすると、救われてるから幸せですとか、喜びがありますとか、こんなわたしも愛されてますとか、そこにスポットを当てすぎてしまうことがよくあります。
そうすると、生きづらさを抱えて、イエス・キリストに救いを見て、洗礼を受けたクリスチャンは、混乱するのですね。どうして、自分はクリスチャンになったのに、喜びも幸せも湧いてこないのだろうか、と。
さらに、そういう牧師は説教では誰もが愛されているとか、愛し合うことを説くのに、一方で聖書や社会の規範から外れた人に触れるのが苦手だったりします。
そこで、生きづらさを抱えている人は、ダブルバインドに遭遇して固まってしまいます。これはキツいですよね。
本当だったら、生きづらさ、痛み、苦しみを、神様の前に注ぎだしてゆく「道」を味わいたいのに。十字架の道ってまさにそれなのに。
(牧師の説教に上手下手って評価貼るなと怒られそうだけど、やっぱり、上手な牧師って、丁寧に人間の苦しい状態を説いて、そしてそれを神様のもとに持ってゆくと、神様がどう扱うか、どう触れてくれるかを説いてくれてます。あと、たとえ説教下手でも、メッセージとメタメッセージが一致してる牧師は、とても良い牧師です)。
苦しいし生きづらいけど、キリストに繋がってなんとか生き延びている人も、それでいいんだって、この本読むと、キリスト教の本ではぜんぜんないけど、見えるんじゃないかなと思いました。