2012年12月02日(Sun)
■ 『青春のヒマラヤ ナンガパルバットへの道』遠藤由加 著
はじめて遠藤由加さんのことを知ったのは、長尾(山野井)妙子さんについて触れられた書籍で、1994年チョー・オユー(8201m)のバリエーションルートを無酸素アルパインスタイルで登攀したという話だったように思う。遠藤、長尾ペアはトップクラスの日本人女性クライマーだということで、興味を持ち、この本を手にしてみた。
1989年上梓されたこの本は、遠藤由加さんが高校時代に初めて山に行ったところから、あれよあれよという間に山岳会に入り、そして、男性に負けないという固い意志をもって訓練を重ね、やがて登山家の伴侶を得て、さらに山にうちこみ、ローツェ(1986年敗退)、アコンカグア(1986年登頂)、K2(1987年敗退)、そしてナンガパルバット(1988成功)に挑んでいった話だ。
登山技術の読みどころとしては、低圧室を利用した高所順応訓練で、特に血液中のヘモグロビンや血清鉄の値や、最大酸素摂取量の測定などが興味深かった。トレーニンする過程でヘモグロビンや血清鉄の値のバランスが崩れ、貧血をおこし、それを休養や酸素などを使ってどう克服したか。また、突然、低圧室でのトレーニング中に酸欠を起こしたとき、記憶はどうとぎれるのか。そうしたことが書かれていた。低圧室のトレーニングはあまり詳しく書かれた記述をこれまで目にしたことがなかったので、珍しかった。
ところで、先にわたしは『K2 非情の山』を読んだのだが、K2に女性が初登頂した年に2人の女性が下山中に亡くなっている。1986年のことだ。遠藤さんは翌年1987年にK2に挑んでいて、登山ルートの途中で一人の女性の遺体と出くわした。
遠藤さんの出会った遺体は、次のように記述されていた。
私は一瞬、その色の鮮やかさに言葉を失い、自分の心臓の音が聞こえたような気がした。その二本の黄色い棒は、ちょうど“ラクスファー酸素ボンベ”のように見えた。しかし、そんなものではなかった。まぎれもなく人間の足だった。(略)私の知らない、その人のすぐ上を登るとき、金色の髪とウインドヤッケが揺れていた。(略)その人は女性だった。手袋もつけずにロープにからませた手の指には、銀の指輪がはめられていた。世界第二位の高峰に自力でたった後、ここで力尽きたのだ。そして今日までの一年近く、こうしてここで一人でいるのだ。
[『青春のヒマラヤ』pp157-158より引用]
これは…どなたなのだろうか。『K2 非情の山』では1986年に下山中に亡くなった女性の一人は、遭難から一ヶ月後に滑落した遺体が発見されギルギーケルンに埋葬されている。もう一人の女性は、高所で吹雪に閉じこめられテントの中で亡くなり、仲間がその手を胸の上に組ませて、切り裂いたテントの布地を遺体の周りにかけたという記述がある。そのご遺体だろうか。その女性は途中で手袋をなくしたという記述もあるので、そうなのかもしれない。
ただ、最後の状況が、胸の上に手を組まされて切り裂いたテント布をかけられ安置されたというのと、ロープを手に絡ませてビレイポイントの真上にいるというのは、かなり食い違いがある気がする。もしかしたら、『K2 非情の山』はあまりになまなましい最後に触れた人が、最後を脚色した可能性もあるな、と、思った。
(追記) コメント欄にて、ご遺体の女性は86年に死亡したまったく別の女性のムロフカでは、というご指摘がありました。本が手元にないので、また後日、確認してみます。 2013/06/25
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