2012年11月25日(Sun)
■ 『K2 2006 日本人女性初登頂・世界最年少登頂の記録』東海大学K2登山隊 編
2006年、日本人女性でK2を初登頂した女性がいる。小松由佳さんという。わたしが初めて存在を知ったのは、14座登頂を果たした竹内洋岳さんのブログで、竹内さんがガッシャーブルムⅡ峰で雪崩にあった時、現地まで支援に駆けつけたエピソードだ*1。
パキスタンにいる大けがで入院した登山家のもとへ、支援のためにさっと駆けつける。どんな女性なんだろう?と、調べてみたら、その前年に世界でもっとも登頂が難しいと言われる8000m峰のK2に、日本人女性で初登頂を果たした方だった。
どんな女性なんだろう?どんな登山家なんだろう?K2へはどんな風に登られたのだろう?
ところが。小松由佳さんはなぜか手記本が存在しない。ウェブにも文章がほとんどない。現在、山岳雑誌『岳人』で連載を持たれているようだけれど、どちらかというと登山よりも世界旅行系のエッセイのようだ。
小松由佳さんのK2の話を、もう少し詳しく知りたい。いろいろと検索してみたところ、本書の存在を知った。もしかしたら、この本に詳しく手記があるかもしれない。そう思いながら、遠方の図書館から地元の図書館のリファレンスを通して、本を取り寄せてみた。
わかったのはこんなことだった。
小松由佳さんは東海大学山岳部OGで、K2登山隊は、東海大学山岳部顧問の出利葉義次氏が企画、隊長を努められた。また、東海大学は医療、スポーツ、気象などのアカデミック資産を所有した総合大学で、この東海大学K2登山隊は、高所トレーニング、高所気象予報、現地医療スタッフなど、総合大学の力で科学的にどこまで挑めるかを挑戦する側面が大きかった。本書はその総合的な報告書で、会計報告、装備一覧、スケジュール、タクティクス、気象予報、医療活動などが、わかりやすく記されていた。
しかし、無味乾燥な報告書ではなく、なんというか、はしばしから人間味があふれ出ている。登山隊というと、どこか精神的に追いつめられ、人間関係にひびが入り、ぎすぎすしたような雰囲気もあるのだけれど、この本の登山隊の人々は、そこが良い意味で抜けている。終始、ほんわかしたムードで、隊員全員が仲良く、また、BCで一緒だった別の登山隊ともなごやかで、現地の高所ポーター、コックらも丁寧に紹介している。
それは、結果的に、隊員全員が、無事に帰国できたことにもよるだろうけれど、ちょっと今まで読んできた登山隊にはない雰囲気でおもしろかった。
もうひとつ、このおもしろさは、「登れちゃいました!」という驚きにもある。この登山隊、当初は、東海大学山岳部OBの登山家、平出和也氏がアタック隊の柱として期待されたという。しかし、平出氏はこの登山の前に凍傷を負い、残念ながら支援隊という後方にまわった。そして、次に期待されたのは、実際にC3までのルート工作やキャンプ設営に精力的に励んだ、OBの蔵元学士氏だ。ところが、蔵元氏はアタック開始のためBCから出発した直後、虫垂炎のような激しい腹痛に見舞われ緊急下山してしまうこととなった。
おそらく、その時、登山隊のほとんどの意識は、もうそこでK2への挑戦への期待は終わったのではないか。リーダーの蔵元氏の急病による下山。ヘリの手配。ヘリが来られる位置まで、担架に乗せての移動。アタック隊に残ったメンバーは、OGの小松氏、学部4年生の青木氏の2名。隊長は、もしかしたら…わたしの勝手な憶測なのだけれど…、二人は適当なところで引き返してくるのではないかと、思ったかもしれない。ここまで来たのだから、二人納得の行くところまでやってこいと、判断を若い二人にゆだねて、登山を続行させたのだ。
そうしたら、まさかの登頂。
小松氏の隊員紹介にはこう記されている。
頂上アタックも、幸いなことに無線が通じず、うるさい隊長から離れて自分の世界で登り続けた。
なんともコミカルに紹介されているが、記録をみると相当、あぶなかったようだ。
2006/8/1 午前2時30分、C3からアタック出発。午前3時30分の無線交信後、連絡がとれなくなる。夕方4時50分、登頂成功の無線連絡が入る。午後5時50分、下降開始の無線連絡から再び無線連絡がとれなくなる。
エベレストの場合、午後1時、遅くとも2時には登頂したにせよ、しないにせよ、下山を開始しないと、それは命の危険を意味するという。K2の場合はなおさらだろう。それが、午後5時50分に下降開始だ。
BCの隊長、隊員らは登頂成功に湧いたものの、すぐに遭難の大きな不安に包まれる。日本では大学が遭難の緊急対策本部をマスコミには秘密裏に設置したという。
小松氏のアタック報告によれば、8/2、午前2時に8200m地点で酸素が切れ、ビバーク体制に入ることとなった。無酸素で、8200m地点でのビバーク。おそろしく危険だ。だけれど、報告は気力にあふれ、決して危険を感じていないのが不思議だ。
それは、高所トレーニングによって高所に順応できていた成果もあるだろうし、日本からの気象情報支援で快晴時を的確にスケジュールできたことにもあるだろうし、また、アタック開始前後から血管の働きをよくするために飲んでいたビタミンEにも支えられたかもしれない。
そうして、夜を明かした、小松氏の報告には8200m地点の夜明けが、ダイナミックに描かれている。十分な朝陽のぬくもりに照らされて、ふたたび力を得て、出発し、8/2 午後12時30分、無線予備機が置いてあるC3に、二人は無事帰還し、BCと連絡がとれた。日本の遭難対策本部が公式に消息不明を発表する寸前だったという。
報告書によれば、C3でも体力回復のために一泊したようだが、その時、小松・青木の二人はそろって不思議なことを体験した。標高7800mのC3。しんと静まりかえって、誰もいない世界のはずなのに、テントの外から、外国人の話し声が聞こえたというのだ。そっと語りかけるような声だったという。小松氏はこのテントを出てはいけない。そう思ったそうだ。K2には多くの遭難者が眠っている。
凍傷も負わず、落石に大きな怪我もせず、無傷で、本当によく帰ってきた。