2012年04月12日(Thu)
■ 久しぶりの学び会
今日は聖書の学び会だった。春休み前から、メンバーの都合やわたしのこどもの卒業式、入学式でばたばたして、1ヶ月と二週間ぶり。
学びの箇所は詩篇90篇、モーセの作った詩といわれているものなのだけど、その内容は時の流れの無情を扱い、方丈記の冒頭を思いおこした。
あなたは人を大水のように流れ去らせられます。彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえでる青草のようです。 あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。 (詩篇 90:5, 6 JA1955)
でも、やっぱり聖書なので、「わたし」であるモーセの住処は神様のいるところなのだ。
そして。やはりモーセなので、神さまに祈り求めるのだ。それは虚しさや罪に目を向けるのではなく、意志をもって神の正しさに向き合う力だ。
それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(新改約 詩篇90:12)
自分の日を正しく数えると、罪を数えることと真逆。いや、罪は罪として正しく数えることもあるかもしれない。けれど、めぐみもまた正しく数えるのだ。
それにしても、数えるというのはものすごいエネルギーを使うことでもある。正しく日を数えることにくじけそうにもなる。できるだろうか、いや、できない。
新約聖書だとイエスさまはこう言っている。
二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。 それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。 (マタイによる福音書 10:29-32 JA1955)
わたしが正しく日を数えるよりも前に、神様はわたしの髪の毛一本までも数えている。そんな存在にどうして、渡り合うことができるだろう。
だから、もう、ただ、イエスさまに執り成しでもらうしか、ない。そして、たったひとり、自分で数えるのではなく、ともに助けてくれるイエスさまがいるから、励まされ、恵みを数えることもできるのだ。
と、いうことを、学んだ。わたしひとりでは、いつも罪を数えるループに陥りがちなので、聖書を読み、仲間と話し合い、そして、導きだされてゆき、神さまの前に出る時間、改めて大切にしてゆきたいと思う。