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shinoのときどき日記


2010年11月25日(Thu)

家を建てる。

適度に毎週やっている聖書の学び会で、今日は、サムエル記下7章を読んだ。

ダビデは放浪を終え、王宮に住むようになり、安定した時代を迎えたかに見える。

そこで、ダビデはお付きの預言者ナタンに次のような自分のアイディアを打ち出してみた。

「見なさい、わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱(モーセの十戒が書かれた石盤か)は天幕を張った中に置いたままだ。」

これはどういうことか。

ダビデの時代まで、モーセがエジプトを脱出してから長く、ユダヤ民族は荒野を歩んできた。その間は、移動、移動、移動の繰り返しで、神殿といった建物を築くことはせず、移住しやすいように、神の箱を天幕に置いて、移住のたびにそれも移動させてきた。

ダビデは政権を勝ち取り、王の座に君臨して、自分の王宮を持つようになったのだが、ふと、気がついてみたら、神の箱がまだ天幕の中にあった。そこで、ダビデは神の言葉を取り次ぐ預言者ナタンに、神の箱を王宮に迎えるか、神殿を築くかという意図を尋ねたのだろう。

けれど、ナタンに対して、神は次のように言う。

「わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上がった日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民イスラエルを牧するようにと命じたイスラエルの部族の一つにでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか」(7:6-7)

ここに、キリスト教の神の性質が大きく表れている。

ひとつめは、神殿を望まない神。 ふたつめは、常に民と共に居ることを望む神。

神はさらに続けて言う。

「あなたがたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。」

わたしは正直、わたし自身、本当にふつうの人間だし、何者でもないので、「地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう」というところにはピンときていないのだけれど、それでも、ここに、神が、願い求めなくても、その前からわたしの守り手として、自らの意志でわたしと共にいてくださる、ということがわかる。拝んだり、祈ったりする前から、もう神が絶大なる意志をもって、おまえと共にいると宣言しているのだ。

そしてここから神とダビデのやりとりの凄いところ。ここがあるからこそ、イエス・キリストの系図にダビデが登場する。

「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。 この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。 わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。 あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。 あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」

ここで「あなた」と呼びかけているのは、ダビデのことだ。

神はダビデが死んだあと、ダビデの子孫から跡を継がせることを約束している。そして、キリスト者ではない人には不思議に思えるかもしれないけれど、そのダビデの子孫は、ダビデの子孫でありながら、同時に神の子であることが約束される。すなわち、キリストのことだ。

自分が死んだ後のこと、その後に残される民を考えるような王が、王道にある王だろう。

ダビデはこの神の申し出を、まったく成功回避の心理なしに、素直に受け入れる。そんなことがあるはずはないじゃないか、というような疑念は一切、もたない。そして、王なのに、自分を謙虚にし、この未来の約束をすっぽりとそのまま賜る…受け入れるのだ。

…わたしのようなふつうの人間だったらば、「まさか。そんな。いや、わたしなんかからそんな子孫が」と思ってしまうだろう。けれど、キリスト教がちょっとおかしいと思うのは、こうした常人の成功回避の心理のリミッターを外した人間に、ほんとうにそれを実現させてしまうということにある。

少し、聖書に出てきていない、「成功回避の心理」という言葉を出したが、これは最近、わたしが知った言葉で、Wikipediaによれば心理学の用語のひとつらしい。しかし、詳細はよくわからない。たとえばマラソンランナーがそのままゆけば勝てるのに、その成功に不安を覚え、あえて失敗を犯すという心理が働くというようなことがあるらしい。人間は不幸を受け入れがたいけれど、それと同じように幸福をも受け入れがたい性質があるようだ。

この言葉を知ったときに、キリスト者が多くつまづいているのは、不信仰というよりも、成功回避の心理ではないかと思った。

神は一方的に恩寵を賜る。けれど、それを受け入れるのを回避してしまう性質のようなものが人間にある。

ダビデの姿に、この成功回避の心理を、回避するテクニックを学びたい。

ダビデはこのような一方的な神の恩寵にどう答えたか。

「万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き『あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、僕はこの祈りを捧げる勇気を持ちました。 主なる神よ、あなたは神、あなたの御言葉は真実です」と、応答を返したのだ。

そして、アブラハム、イサク、ヤコブから連なりダビデを通過する系譜の果てに、二千年前、キリストが誕生する。


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