2009年03月27日(Fri)
■ 「ラースと、その彼女」
さて、1月に観た映画「ラースとその彼女」の感想を書いてみる。(まだ上映中のようだ。以下、ネタバレ注意)。
冒頭は礼拝のシーンからはじまった。牧師の語る、新約聖書の精髄。
「聖書にはたったひとつのルールがあります。それは、隣人を愛しなさい、ということです*1」。(正確な言い回しは違ったかもしれない。パンフレットもなく一回だけしかみていないので、下記は記憶を頼りにしているだけなので物語の前後に間違いがあるかもしれない。その点、ご容赦ください)
それを聞いた瞬間、わたしは、「あ、この映画は本物だ」と思った。
この映画では、リアルドールが出てくることが有名だが、映画本編で一度も本来的なそのような描写はない。つまり剥きだしな性はでてこない。ただ、一度だけ、ラースがリアルドールをあたかも生きている人間の恋人であるように連れ回していることを噂話にする女性たちが、ほんのすこしだけ、その本来の機能について語るにとどまっている。
話の主軸は、聖書の約束「自分を愛するように、隣人をも愛しなさい」なのだ。ここで注意したいのは、やみくもに隣人を愛するということではなく、健全な自己愛を確立した上ではじめて隣人を愛せるということだろう。
そして、もう一つのテーマは、旧約聖書でアダムに対しイヴを作った理由「人がひとりでいるのはよくない*2」。これは礼拝帰りにラースに花を差しだし、「人がひとりでいるのはよくないわよ。この花をかわいい女性にあげて恋人でもつくりなさい」と老婦人がラースに語ることばにこめられている。ラースは老婦人が去るや否や、その花を放り捨てる。
ラースは、内気な青年だった。内気、言い換えれば、ひたすらに意識・無意識的に自分を攻撃し、他人に対して心を閉ざしている青年だったのだ。また、ラースには兄がいて、その妻は妊娠していた。兄は父親から受け継いだ家に住み、ラースはその家のガレージに住んでいたが、交流はなかった。しかし、兄嫁は、孤独にいるラースを気にかけ、食事に誘ったりと奮闘していた。断固としてラースが交流を固辞していたからだ。
しかし、ラースは決して冷たいわけではない。雪がちらつくなか、ガレージまできて食事をともにしようと戸をたたく兄嫁に、少しだけ戸をひらき、寒いからと自分の母親の形見であるショールを貸したりする、そんなやさしさを持っていた。
そんなある日、職場で同僚が、ジョークで、リアルドールの通販ホームページをラースに紹介した。老婦人が語った「人がひとりでいるのはよくない」という言葉が、引っかかっていたのかもしれない。それが気になったラースは、リアルドールを一体、注文したのだ。
そして、何度も食事に誘ってくれていた兄夫婦にこたえ、ディナーに訪れ、初めてリアルドールを披露した。そのとき、リアルドールである「彼女」はいかにもな派手な服を着ていたのだが、ラースは、兄夫婦にこう説明する。
「彼女はブラジルの孤児院で育った修道女なんだ。この国には伝道に来たのだけれど、空港で荷物をなくしてしまったんだ。洋服を貸してくれないか。おまけに彼女は足が悪くて歩くことができない。車椅子も必要なんだ」
ラースの兄は、その事態をみて、キッチンでキれるが、兄嫁がそれを制止し、はじめてラースが助けを求めたことを喜び、助けに誠実に答えようと対応した。その結果、彼女は兄嫁のお下がりの、Gパンにセーターという普通の女性の普段着といういでたちになる。
しかし、ラースの兄は、弟がこのようになってしまったのは長いこと弟をほったらかしていた自分に責任があると感じ、彼女の具合が悪いのでは?と口実をつけ、町でただ一人の医師、内科も心療内科もみられる女性医師のもとにつれていく。ラースには彼女の調子がわるいので通院して様子をみることが必要という口実のもと、本人に対しカウンセリングが行われていった。
一方で、ラースは教会に彼女を連れていき、小さな町なので、職場も同じ人もいて、すぐにそれは噂になっていった。教会の人々も最初はとまどったが、ラースに花をさしだした老婦人がひとりひとりに「あなたの前妻は盗癖があったじゃない。あなたは・・・・・・」と、いくらでも人には罪があり、神にゆるされて救われていることを確認し、ラースのこともゆだねつつ、見守ろうとさとした。そして、ラースが仕事に行っている間、兄嫁も協力しあい、積極的に彼女を連れ出してボランティア活動やアルバイトをさせるのだ。
兄嫁の妊娠も順調に経過し、だんだんお腹がつきだしてくる。ラースのカウンセリングも進んでいった。そして、ラースが、自分を攻撃する理由が明らかになる。ラースが生まれたときに、母親が亡くなったのだ。そのため、父親は荒れ、ラースは母親が亡くなり、父親を不幸にしたのは自分のせいだと攻め続けていたことが、明らかになったのだ。ラースはそのことと、兄嫁の出産に対する恐怖を重ね合わせ、過呼吸の発作をおこすほどに錯乱したが、カウンセラはそれを受け止めた。
また、ラースが彼女とひっそりとすごそうと思った夜(性的な要素はまったくない)、彼女にはボランティアのスケジュールがあり、連れ出された。すでに彼女は、一人の人間として、人々に受け入れられていたのだ。ラースは、自分一人の世界に生きていたし、彼女もまたその一部だったのだが、その事件で、人と人が関わりあって生きている社会に気づかされる。
最初、ラースは憤った。激しく彼女と喧嘩した。しかし、隣人たちがやさしく、あたたかく、自分の存在を見守っていることに気づき、それを受け入れ、徐々に、彼女の不自然な存在を終わりにしていった。それは、まずは彼女を危篤状態として病院に救急車で運び込むという行動をとり、いったん回復したものの、最後は兄夫婦とピクニックに行った美しい湖に彼女と飛び込み、そして、彼女は死んだ、という形をとり。カウンセラの医師は、兄夫婦に彼女の病気も死も、「ラースが決めたのよ」と説明した。
象徴的なのは、水の中に、共に飛び込み、ラースは生き、彼女が死んだ、という形で行われていることだ。これは、洗礼のイメージと重なる。人がキリストを受け入れる時、洗礼を行いキリスト者になるのだが、その前の古い自分は死に、新しく生まれ変わることを意味している*3。つまり、ラースは、彼女の死と共に古い自分を神にゆだね、そして、健全に自分を愛し隣人と交わる新しい生き方の道を選択した象徴、新しい人として生まれ変わった象徴ともとれる。
最後は、彼女の葬式で終わるのだが、それまで教会に来ていない職場の同僚たちも列席している(ラースにリアルドール通販サイトを紹介した同僚も)。その中で、教会も職場も一緒で、物語中、ラースをずっと気にかけていたキュートな女性が、ついに、ラースのまっすぐな瞳の中にうつり、そして葬儀で使われた花を、最初は老婦人にわたされキュートなその女性の目の前で放り捨てた花を、今度はまっすぐに差しだし、映画は終わった。
※今回、同僚のキュートな女性とのエピソードは割愛しました。猛烈にラースにアタックをかけるキュートな女性のエピソードは映画を楽しんでください。なんだかえらいまじめに書いてしまいましたが、基本はヒューマンコメディ映画なので、楽しめると思います。
『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい、
また、隣人を自分のように愛しなさい』
ルカによる福音書10:27
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
創世記2:18
はっきり言っておく。
だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
肉から生まれたものは肉である。
霊から生まれたものは霊である。
『あなたがたは新たに生まれねばならない』と
あなたに言ったことに、驚いてはならない。
ヨハネによる福音書3:5-7